生命の畏敬のないところに教育は存在しない
人間の寸法
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橋を見て、思いのほかきれいなもんやなぁと、クルーのひとりが言いました。
そんな人工美がないとはいえないけれど、私はそんなことより、地球から生えてきたものと、どんなに計算され強度を持ったものであっても人が作って地球の上に置いたものとの差を考えていました。
橋はこんにちの建築学から見て傑作かも知れない。人は知識にたよって、この建造物に身をまかせているけれど、緑の山を見て眠る赤ん坊なら、足に目を見張っても、心安らかに目をつむる事はあるまいと、わたしには思えたのです。
怖くて外へ出られないという人がおられたら、外へ出られないというつらさを「共感」しながら聴いていく
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ノイローゼといっても非常にいろんなものがありますけれども、日本の人がよくなるノイローゼに、たとえば対人恐怖症というのがあります。こういう所へ出てこられても、なにか人に会うといやだから、なるべく隅の暗い所へ座るとか、あるいはそもそもこういう所へ出てこられない。しかも大事なことは、そういう人は頭の中では人間はなにも怖くないということはご存知なんですね。それはわかっているのだけれども、ともかく怖い、どうにもならない。だから非常に気の毒なのです。そういうノイローゼをなんとか治してください、といってわれわれのところに来られる。それをなんとか治さなければなりません。
その時にわれわれとして非常に大事なことは、その人がどんなふうに苦しんでおられるのか、どんなふうにその問題を克服しようとしておられるのかということを一緒に考え、一緒に悩んでいくということです。その人を、先ほどいいましたような、客観的に突き放して観察する、研究するというのではなくて、怖くて外へ出られないという人がおられたら、外へ出られないというつらさを「共感」しながら聴いていく、私どもも共にという姿勢です。
そんなふうにして、そういう人と話し合っているうちにわかってきたことは、これは外に出られない人を出るようにしてあげるとか、あるいはこのごろよくあるように、不登校の人学校へ行けるようにしてあげるとかいうふうな単純な問題ではなくて、そこにはいかに生きるかということが入ってくる。つまり学校行けない人は、ほんとうは行けないということについて、行けないだけのその人にとっての意味があるわけで、それはどういうことなのだろうかということを考えているうちに、その人の考え方、人生観、世界観、そういうふうなことがだんだん問題になってくるわけです。
このようにわれわれの心理学は、はじめはノイローゼの人を治療するという非常に現実的なことからでてきながら、結局は生きるということはどういうことなのか、あるいは生き方としてどういうことがあるのだろうか、という人間の根本問題にだんだん近寄らざるをえなくなる。何らかの意味で人間の人生全般について考えねばならなくなってくる。
(河合隼雄『こころの最終講義』「第五章 アイデンティティの深化」259-260頁、新潮文庫)
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あっという間に11月です。
だんだんと寒くなってきました。
相変わらず、たくさんの行事と日々の実践で慌ただしい毎日です。
事故にはくれぐれもご注意を。健康第一。
最近は、河合隼雄先生の本を読んでいるわけですが、たまに、学校の先生という仕事は、一体なんなのかと考えるときがあります。
国語や算数の知識を教えるだけではないことはたしかです。
心の闇を抱える子は、一人や二人ではありません。20人いれば、20人それぞれが、教科書以外のものも背負って登校します。
それぞれの“物語”をもって生活を重ね、友だちや先生、家族、地域の人たちにかかわっていく。
その“物語”をどれだけ聴くことができるだろう。
ご報告
9月29日、教員採用試験の2次選考試験の結果が発表されました。
この日は、火曜日。当然、いつものように授業です。
合格者の番号は、午前9時にHPに公表されるのですが、当然、いつものように授業です。
午後、空き時間があったので、パソコンで見ることができたのですが、まだ子どもたちもいるし、帰りの会もある。放課後も、校外活動があったので、今日の仕事を一先ず終えてから見ることにしました。
ドキドキしながら、ネットに繋ぎ、HPの合格者番号の画面を見ると・・・。
ありました!
自分の番号が!
念のために番号を確認するために、家に電話。
受験番号を確認し、番号があったことを伝えると、母は大喜び。
その後、校長先生や前の職場でお世話になった先生方、応援し続けてくれていた友人、先輩たちにご報告をさせていただきました。
やっとです。
「今年こそ!」
「今年こそ!」
と挑戦し続けて5回目。
一度諦めた夢を志して、7年半。
やっと、良い報告ができました。
10年前じゃ考えられなかったことです。
同級生にも合格の報告をすると、
「まさか、お前が教師になるとは考えられなかった」と、本心を打明けてくれましたw
ずっと応援をしてくれた地域の皆さん、先輩方、友人、先生方、そして恩師のおかげです。
来年度から、新任として頑張ります。
というか、今の職場でこそ、頑張らねばなりません。勝負の2学期です。ここでしっかりと、力をつけていきます。
患者は物語をもって病院を訪ね、診断をもらって帰る
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ところが、語りというのは上下関係がなくなってくるのです。一緒に面白い語りをしなければ帰ってしまいますからね。「告げる」の上下関係に対して、「語る」ということは関係がだんだん深まっていくのです。そういうことが非常にうまく書いています。
このような点から。私は、「物語は大事だ」と主張するようになりました。僕の考え方だったら、僕は自分の人生というのを「僕の物語を生きているのだ」とおもっているわけです。皆、それぞれの物語を生きている。
自然科学の知恵と神話の知恵とは違うという話をしましたがそれと同じことで、たとえば、「コップから水を飲む」というのはあたり前の話です。「水を飲んだのですよ」と言わなくてもいい。ところが、こういうことがあります。「とうとう水を飲んだんですよ」と聞くだけで大感激というときがあります。障害児でなかなか手で持てない子、高齢者でボケてきて何もできないと思っていた人がだんだん意欲が出てきて、「自分で水を飲んだんですよ」というとき。そのときは、水を飲むということが物語の中核になります。「ついにやったあ!」に対して、「飲んだ」というのはファクト、事実です。そのときに、この人のどういう物語の、どういう文脈のなかでそれが行われているか。物語ということがわかってくると、人と人とのつながりもできる。人と人との心は、物語によってつながっていることが多いです。
(中略)
たとえば私が、「あれもしたい、これもしたい。生まれて初めてこういうことがあって、今度こそあれをやろう」などと思ったときに、胸のあたりが痛くなって、「ちょっと病院に行ってくるか。治ったらあれをやるんだから」と思っているのに、病院に行ったら、お医者さんが「肺癌です。即入院です」。「えー!」と言ったら「ほとんど手遅れです。手術して助かるか、助からないか。手術をしなかったら、あと二か月ですね」なんていうことを、お医者さんから告知されます。そのときのことについて、この著者のお医者さんたちが書いているのです。「患者は物語をもって病院を訪ね、診断をもらって帰る」。物語がバーンと、一挙に潰れるのです。
お医者さんから言わせたら、「ああ、あれですか、癌です、末期です」。その通りです。でも、本人からいったら、私のせっかくの物語の始まりのところでなぜ殺すのですか。別に医者が殺すわけではないけれども、そう言いたいほどの体験になります。そういうことまでわかって医療をしないとほんとうの医療にならないということを、この人たちは言いだしたのです。僕はすごい歓迎をしているわけです。
(河合隼雄 『河合隼雄の読書人生 深層心理への道』「15 物語の意味」222-224頁、岩波書店)
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お久しぶりですね。1ヶ月以上も書いておりませんでした。
夏休みに入っても、教員採用試験に追われていました。なんとか1次は合格し、やっと2次試験が終わったと思ったら、もう夏休みが終了。
あっという間の夏休みでしたね。
校内研修も多くある中で、試験対策といえば、ピアノの練習ぐらいだったようなw
その中でも、地域の夏祭りに参加したり、親戚が集まったり、県外に引っ越した教え子にバッタリ再会したり、映画を観たり・・・。まぁ色々ありました。
さて、いよいよ2学期。新学期です。
子どもたちは、夏休みに普段できないようなたくさんの経験をして学校へやってくることでしょう。
半日じゃ聴けないほどに、たくさんの物語を語ってくれることでしょう。楽しみです。
2学期も怒涛の日々であり、意味のある実践を重ねないと、あっという間に過ぎてしまう。
ps,
河合隼雄先生、やっぱりすごい人だな~と思いました。
目からウロコ。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。
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教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。
前にラカンを引いたときに、教師が教師として機能するのは教壇に立っているからだと申し上げました。「人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている。教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してない」。ラカンはそう言っていました。「教壇に立つ」というのは、そのこと自体が「私は教育の有効性を信じている」と信仰告白することです。
私もまたかつて教壇の「そちら側」に座っていて、師の言葉を書きとっていた。今、私は教壇の「こちら側」に立っていて、私の言葉を書き取らせている。そういう立場になることになったのは、私がこの「教壇をはさんで成立する関係」を信じたからである。その関係を信じるものは、いずれこの教壇の「こちら側」に立つことができる。教師は教壇に立っているだけですでに無言のうちにこれだけのことを述べているわけです。何も言わなくても、何をしなくても、「私は教壇をはさんで行われる知の運動を信じる」という信仰告白を、教師は教壇のこちら側に立つことによってすでになし終えているのです。
それを言い換えると、「私もかつては師の弟子であった」と告げるということです。教壇をはさんで行われる知の運動を信じるというのはそういうことです。「私には師がいた」というのが、教師が告げるべき最初の言葉であり、最後の言葉なのです。
ですから、学びの場というのは本質的に三項関係なのです。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。さきほどの発表者が「教育におけるインプリケーションのためのシステムの構築」のことです。そして、この「(その場にいない)師の師」こそが、学びを賦活する鍵なのです。
(内田樹 『街場の教育論』「第7講 踊れ、踊り続けよ」142-143頁、ミシマ社)
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「人生における」師がいることの幸せ。
師弟関係は、人間の世界にしかない。動物の世界では、「親子関係」はあるが「師弟」はない。「親分関係」はありますが・・・。師の激励と弟子の応戦は、人間にしかできない崇高な関係だと思います。
また、師は弟子としての模範を示してくれます。かつて師匠にも、その師匠がいたのですから。
ボクも弟子として、今の立場でできることを精一杯することです。あまりにも偉大な人生の使命を自覚することは難しいですが、今いる場所、地域で責任と使命を果たしていきたい。
師は弟子の勝利を待っている。
ps,
気がつけば、7月。
残り2週間。どのように夏休みを迎えようか。しっかりと学びの質を高めて夏休みに突入したい。
そして、試験・・・;
5度目の挑戦となります。
学び続けろということでしょうか; しかし、参考書とはオサラバしたい!!
苦悩を突き抜け歓喜に至れ!
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ここは男と女だけではない
偏見・差別 先入観もない
母と子笑いさざめいてる世界
年もとらなきゃ病でも負けない
別に天国じゃない 夢でもない
ただし悩むことからは避けられない
たとえ苦しんでも楽しませたい
なら苦悩を突き抜け歓喜に至れ!
(Def Tech『Howzit!?』「Freeing Ur Pain」)
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Def Techの2年ぶりのアルバム、やっと手に入れました。
最強のジャワイアン!!
今回もええ感じになっておりますよ。
この夏は、Def Techで決まりです!
ps,
「悩みをつき抜けて歓喜に至れ!」とは、ベートーヴェンの金言ですが、これがMicroも歌っているとは、やはりというか、さすがです。
悩みがなければ悟りもない。
悩みや困難がない人生が幸せではないことはたしかです。生きていくうえでは、必ず困難な壁にぶつかるわけですから、それに勝つか負けるかの違いだけです。
人生は勝負。