2015年最終日


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あと少しで2015年も終わりです。

あっという間でしたね。

今年は、担任を持つことになり、がむしゃらに走り続けた1年でした。残りの3学期も走り切ります。

その中で、夏の教員採用試験に5度目の挑戦にして、ついに合格を勝ち取ることができました。今年度の戦いは、今後の教員人生において大きなターニングポイントとなったと思います。

嬉しいことばかりではなく、辛いこともたくさんありました。苦しいこともありました。しかし、“大悪おこれば大善きたる”を信じ、明年2016年は大前進・大勝利の年にしていきたい。

今年は、仕事でもプライベートでも土台作りの1年だった感じです。

その土台の上に、また成長した自分が立てるようにがんばっていきます。

 

では、よいお年を!

生命の畏敬のないところに教育は存在しない

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 生命受難は政治の上から降りかかろうと、経済の上から降りかかろうと、その根は同じものではないかと思われて仕方ありません。かつて林竹二先生は教育の成り立ちにふれて、生命の畏敬のないところに教育は存在しないと言われました。
 このことは教育に携わる人間に向けて発せられた言葉のようにきこえますが、実はすべての人間の思考と行動に向けて発せられた深遠な警告であり、人間が人間にありうるところの普遍的な哲学です。
 政治権力を握る人、企業の上に君臨する人の生命哲学は、それをもって身を切るほどの峻烈な自己吟味が要求されるはずでありましょうに。
 中国のようなことが起こらなくてよかったと多くの日本人はいいますが、自然破壊と公害によるわが国の生命抹殺は、まことにひどい修羅場を作っていることに人々は思いをいたすべきでしょう。
 戦車で人間を踏みつぶす行為は誰もが避難しますが、緩慢な虐殺に人々は目をつぶりがちです。
 たとえば教育公害という言葉でもっていえば、そのために心身を傷つけられ、生命さえ奪われる幼い、あるいは若い人々のなんと多いことでしょうか。
 苦悶の日々は、わたしたちの上にもあるのです。
 
水上勉灰谷健次郎『いのちの小さな声を聴け』「未来はいつも(灰谷健次郎)」165-166頁、新潮文庫
 
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いのちの小さな声を聴け (新潮文庫)

いのちの小さな声を聴け (新潮文庫)

 

 

 

 

 

人間の寸法

 

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橋を見て、思いのほかきれいなもんやなぁと、クルーのひとりが言いました。

そんな人工美がないとはいえないけれど、私はそんなことより、地球から生えてきたものと、どんなに計算され強度を持ったものであっても人が作って地球の上に置いたものとの差を考えていました。

 

 橋はこんにちの建築学から見て傑作かも知れない。人は知識にたよって、この建造物に身をまかせているけれど、緑の山を見て眠る赤ん坊なら、足に目を見張っても、心安らかに目をつむる事はあるまいと、わたしには思えたのです。

じっさい、わたしには橋の上の車が、今にもぽろぽろ落ちてくるように思えた。
水上さんが人間の月着陸を、実際に月を見ていたものには見えなかったと、おかしくも語っておられたが、何かそれに似たおかしさと頼りなさを、私はその橋を見て感じました。
そして、30数年前の進水式の情景がありありとわたしに甦ってくる。
ついに最後まで読まれることのなかった『シートン動物記』の持ち主の死を、私は思い起こす。
瀬戸大橋の犠牲者十七名です。
連休に瀬戸大橋を見ようと押しかけた人は善良な市民と呼ばれる人たちでしょう。善良かどうかは知らないが、わたしもそのうちのひとりです。
「……生まれてくる人はみな、たった三尺の足はばの人生を生きるしかないのです。しかしながらたいがいの人間は、足はば三尺の歩行に満足できず、海に橋を架け、本土から四国へ車や飛行機を使ってゆきたがり、いや、もっととてつもないものを使って月にまで出かけたいようです。その裏で、人が苦しんだり悲しんだりしているのないがしろにしようとも」
水上さんのこの言葉は何百遍唱えても、唱え過ぎということには至るまいと、私は思います。
橋の入り口にあたる下津井節で有名な下津井のまちは、昔の面影が随所に残るいいところです。
さっそくに、という表現は穏当ではありませんが、橋ができ、あまりの騒音に耐えかね、下津井の人が座り込みをはじめたというニュースがテレビに流れました。辛いことです。
三尺の歩行を飛び越えたならば、いくら善良な市民であっても、瀬戸大橋の犠牲者十七名のいのちは目に映らないでありましょう。三尺足らずの寸法のうちに生きる多くのいのちのたった一つも目に映らないでありましょう。
人はそうして、こまやかさと優しさを失っていくのでしょうか。
 
水上勉灰谷健次郎『いのちの小さな声を聴け』「海と船と少女(灰谷健次郎)」52-54頁、新潮文庫
 
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いのちの小さな声を聴け (新潮文庫)

いのちの小さな声を聴け (新潮文庫)

 

 

 

 

怖くて外へ出られないという人がおられたら、外へ出られないというつらさを「共感」しながら聴いていく

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 ノイローゼといっても非常にいろんなものがありますけれども、日本の人がよくなるノイローゼに、たとえば対人恐怖症というのがあります。こういう所へ出てこられても、なにか人に会うといやだから、なるべく隅の暗い所へ座るとか、あるいはそもそもこういう所へ出てこられない。しかも大事なことは、そういう人は頭の中では人間はなにも怖くないということはご存知なんですね。それはわかっているのだけれども、ともかく怖い、どうにもならない。だから非常に気の毒なのです。そういうノイローゼをなんとか治してください、といってわれわれのところに来られる。それをなんとか治さなければなりません。

 その時にわれわれとして非常に大事なことは、その人がどんなふうに苦しんでおられるのか、どんなふうにその問題を克服しようとしておられるのかということを一緒に考え、一緒に悩んでいくということです。その人を、先ほどいいましたような、客観的に突き放して観察する、研究するというのではなくて、怖くて外へ出られないという人がおられたら、外へ出られないというつらさを「共感」しながら聴いていく、私どもも共にという姿勢です。

 そんなふうにして、そういう人と話し合っているうちにわかってきたことは、これは外に出られない人を出るようにしてあげるとか、あるいはこのごろよくあるように、不登校の人学校へ行けるようにしてあげるとかいうふうな単純な問題ではなくて、そこにはいかに生きるかということが入ってくる。つまり学校行けない人は、ほんとうは行けないということについて、行けないだけのその人にとっての意味があるわけで、それはどういうことなのだろうかということを考えているうちに、その人の考え方、人生観、世界観、そういうふうなことがだんだん問題になってくるわけです。

 このようにわれわれの心理学は、はじめはノイローゼの人を治療するという非常に現実的なことからでてきながら、結局は生きるということはどういうことなのか、あるいは生き方としてどういうことがあるのだろうか、という人間の根本問題にだんだん近寄らざるをえなくなる。何らかの意味で人間の人生全般について考えねばならなくなってくる。

 

河合隼雄『こころの最終講義』「第五章 アイデンティティの深化」259-260頁、新潮文庫

 

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あっという間に11月です。

だんだんと寒くなってきました。

相変わらず、たくさんの行事と日々の実践で慌ただしい毎日です。

事故にはくれぐれもご注意を。健康第一。

 

最近は、河合隼雄先生の本を読んでいるわけですが、たまに、学校の先生という仕事は、一体なんなのかと考えるときがあります。

国語や算数の知識を教えるだけではないことはたしかです。

心の闇を抱える子は、一人や二人ではありません。20人いれば、20人それぞれが、教科書以外のものも背負って登校します。

それぞれの“物語”をもって生活を重ね、友だちや先生、家族、地域の人たちにかかわっていく。

その“物語”をどれだけ聴くことができるだろう。

 

 

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こころの最終講義 (新潮文庫)

こころの最終講義 (新潮文庫)

 

 

ご報告

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9月29日、教員採用試験の2次選考試験の結果が発表されました。

この日は、火曜日。当然、いつものように授業です。

合格者の番号は、午前9時にHPに公表されるのですが、当然、いつものように授業です。

午後、空き時間があったので、パソコンで見ることができたのですが、まだ子どもたちもいるし、帰りの会もある。放課後も、校外活動があったので、今日の仕事を一先ず終えてから見ることにしました。

 

ドキドキしながら、ネットに繋ぎ、HPの合格者番号の画面を見ると・・・。

 

 

ありました!

自分の番号が!

 

念のために番号を確認するために、家に電話。

受験番号を確認し、番号があったことを伝えると、母は大喜び。

その後、校長先生や前の職場でお世話になった先生方、応援し続けてくれていた友人、先輩たちにご報告をさせていただきました。

 

やっとです。

「今年こそ!」

「今年こそ!」

と挑戦し続けて5回目。

一度諦めた夢を志して、7年半。

やっと、良い報告ができました。

 

10年前じゃ考えられなかったことです。

同級生にも合格の報告をすると、

「まさか、お前が教師になるとは考えられなかった」と、本心を打明けてくれましたw

 

ずっと応援をしてくれた地域の皆さん、先輩方、友人、先生方、そして恩師のおかげです。

 

来年度から、新任として頑張ります。

というか、今の職場でこそ、頑張らねばなりません。勝負の2学期です。ここでしっかりと、力をつけていきます。

患者は物語をもって病院を訪ね、診断をもらって帰る

https://instagram.com/p/6-22TQSpgN/

 

 

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 ところが、語りというのは上下関係がなくなってくるのです。一緒に面白い語りをしなければ帰ってしまいますからね。「告げる」の上下関係に対して、「語る」ということは関係がだんだん深まっていくのです。そういうことが非常にうまく書いています。

 このような点から。私は、「物語は大事だ」と主張するようになりました。僕の考え方だったら、僕は自分の人生というのを「僕の物語を生きているのだ」とおもっているわけです。皆、それぞれの物語を生きている。

 自然科学の知恵と神話の知恵とは違うという話をしましたがそれと同じことで、たとえば、「コップから水を飲む」というのはあたり前の話です。「水を飲んだのですよ」と言わなくてもいい。ところが、こういうことがあります。「とうとう水を飲んだんですよ」と聞くだけで大感激というときがあります。障害児でなかなか手で持てない子、高齢者でボケてきて何もできないと思っていた人がだんだん意欲が出てきて、「自分で水を飲んだんですよ」というとき。そのときは、水を飲むということが物語の中核になります。「ついにやったあ!」に対して、「飲んだ」というのはファクト、事実です。そのときに、この人のどういう物語の、どういう文脈のなかでそれが行われているか。物語ということがわかってくると、人と人とのつながりもできる。人と人との心は、物語によってつながっていることが多いです。

(中略)

 たとえば私が、「あれもしたい、これもしたい。生まれて初めてこういうことがあって、今度こそあれをやろう」などと思ったときに、胸のあたりが痛くなって、「ちょっと病院に行ってくるか。治ったらあれをやるんだから」と思っているのに、病院に行ったら、お医者さんが「肺癌です。即入院です」。「えー!」と言ったら「ほとんど手遅れです。手術して助かるか、助からないか。手術をしなかったら、あと二か月ですね」なんていうことを、お医者さんから告知されます。そのときのことについて、この著者のお医者さんたちが書いているのです。「患者は物語をもって病院を訪ね、診断をもらって帰る」。物語がバーンと、一挙に潰れるのです。

 お医者さんから言わせたら、「ああ、あれですか、癌です、末期です」。その通りです。でも、本人からいったら、私のせっかくの物語の始まりのところでなぜ殺すのですか。別に医者が殺すわけではないけれども、そう言いたいほどの体験になります。そういうことまでわかって医療をしないとほんとうの医療にならないということを、この人たちは言いだしたのです。僕はすごい歓迎をしているわけです。

 

 

河合隼雄河合隼雄の読書人生 深層心理への道』「15 物語の意味」222-224頁、岩波書店

 

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お久しぶりですね。1ヶ月以上も書いておりませんでした。

夏休みに入っても、教員採用試験に追われていました。なんとか1次は合格し、やっと2次試験が終わったと思ったら、もう夏休みが終了。

あっという間の夏休みでしたね。

校内研修も多くある中で、試験対策といえば、ピアノの練習ぐらいだったようなw

その中でも、地域の夏祭りに参加したり、親戚が集まったり、県外に引っ越した教え子にバッタリ再会したり、映画を観たり・・・。まぁ色々ありました。

 

さて、いよいよ2学期。新学期です。

子どもたちは、夏休みに普段できないようなたくさんの経験をして学校へやってくることでしょう。

半日じゃ聴けないほどに、たくさんの物語を語ってくれることでしょう。楽しみです。

 

2学期も怒涛の日々であり、意味のある実践を重ねないと、あっという間に過ぎてしまう。

 

 

ps,

河合隼雄先生、やっぱりすごい人だな~と思いました。

目からウロコ。

 

 

 

「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。

https://instagram.com/p/4eb7cxSpsp/

 

 

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 教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。

「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。

 前にラカンを引いたときに、教師が教師として機能するのは教壇に立っているからだと申し上げました。「人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている。教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してない」。ラカンはそう言っていました。「教壇に立つ」というのは、そのこと自体が「私は教育の有効性を信じている」と信仰告白することです。

 私もまたかつて教壇の「そちら側」に座っていて、師の言葉を書きとっていた。今、私は教壇の「こちら側」に立っていて、私の言葉を書き取らせている。そういう立場になることになったのは、私がこの「教壇をはさんで成立する関係」を信じたからである。その関係を信じるものは、いずれこの教壇の「こちら側」に立つことができる。教師は教壇に立っているだけですでに無言のうちにこれだけのことを述べているわけです。何も言わなくても、何をしなくても、「私は教壇をはさんで行われる知の運動を信じる」という信仰告白を、教師は教壇のこちら側に立つことによってすでになし終えているのです。

 それを言い換えると、「私もかつては師の弟子であった」と告げるということです。教壇をはさんで行われる知の運動を信じるというのはそういうことです。「私には師がいた」というのが、教師が告げるべき最初の言葉であり、最後の言葉なのです。

 ですから、学びの場というのは本質的に三項関係なのです。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。さきほどの発表者が「教育におけるインプリケーションのためのシステムの構築」のことです。そして、この「(その場にいない)師の師」こそが、学びを賦活する鍵なのです。

 

内田樹 『街場の教育論』「第7講 踊れ、踊り続けよ」142-143頁、ミシマ社)

 

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「人生における」師がいることの幸せ。

師弟関係は、人間の世界にしかない。動物の世界では、「親子関係」はあるが「師弟」はない。「親分関係」はありますが・・・。師の激励と弟子の応戦は、人間にしかできない崇高な関係だと思います。

また、師は弟子としての模範を示してくれます。かつて師匠にも、その師匠がいたのですから。

ボクも弟子として、今の立場でできることを精一杯することです。あまりにも偉大な人生の使命を自覚することは難しいですが、今いる場所、地域で責任と使命を果たしていきたい。

 

師は弟子の勝利を待っている。

 

 

ps,

気がつけば、7月。

残り2週間。どのように夏休みを迎えようか。しっかりと学びの質を高めて夏休みに突入したい。

そして、試験・・・;

5度目の挑戦となります。

学び続けろということでしょうか; しかし、参考書とはオサラバしたい!!

 

 

街場の教育論

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