年末御馳走祭

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冬休み、職員旅行がありました。今年度、2回目です。楽しく仲のいい職場でありがたいです。2学期も、周りの先生方に助けてもらってばかりでした。

旅行は、1泊2日の京都の旅。

今回は、電車で京都に向かいました。

1日目。京都に到着して、錦市場、新京極をぶらぶらと回って、三条鳥丸・美先という京料理一筋30年の板前さんによるランチをいただきました。皆さん、湯葉御膳を注文している中、ただ一人私は、お造り御膳を食べました。湯葉が嫌いなのではありません。お造り御膳でも、美味しい湯葉を食べることができました。

 

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その後、南禅寺六波羅蜜寺を散策。

 

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途中、無鄰菴という山縣有朋の別荘にも立ち寄りました。

素晴らしい庭園があり、心が洗われる感じです。

洋館の建物もあり、中を見学することができます。この洋館の2階には、山縣有朋立憲政友会伊藤博文、総理大臣桂太郎外務大臣小村寿太郎の4人によって、日露戦争直前の外交方針を決める会議が行われたそうです。実際に使われていた椅子やテーブルがそのまま残してありました。

 

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宿泊したホテルは、京都駅のグランヴィアホテルという高級感漂うホテル。最上階で、ラウンジもあり、とても快適でした。夜景も綺麗です。特に、京都タワーが美しく輝いていました。

夜は、千房というお好み焼きの名店で、美味しいコース料理をいただきました。

 

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2日目は、レンタカーで、日本三景天橋立を見に行きました。天橋立は、初めてです。天候が心配でしたが、なんとか雨があがってくれました。車で移動中には雨が降っていましたが・・・。

伊根の舟屋も見に行きました。ここでも、美味しいお造り御膳を食しました。

 

 

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帰りには、るり渓に立ち寄り、イルミネーションを見に行きました。オーロラをイメージしたライトアップもされていて、寒い中でしたが、とてもキレイなイルミネーションを見ることができました。皆さん大満足で帰路に着きました。

 

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今回の旅行プランを立てていただいた先生に感謝です。

親睦を深めることができましたし、ご馳走もたくさんいただきました。

 

 

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ps,

次の日は、高校の同窓会。

卒業以来の友人もいて、かなり懐かしかったです。たくさん笑いました。相変わらずの下ネタで、大いに盛り上がるという、バカまるだしで、特に男子は変わっていなかったですなぁ(笑)

最高級の焼き肉店で、連日、御馳走を食べていて、胃袋がびっくりしています。

あたかもその場にいるかのような錯覚

 

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  上手な落語を聞くと、セリフとしぐさで造形された人物が、あたかもその場にいるかのような錯覚を起こさせる。酒を飲むしぐさ、そばやうどんを食べるしぐさ、饅頭を頬張るしぐさなどかリアルに描写され、登場人物の実在感を生む。酔っ払いは次第に酔いが回って呂律があやしくなり、同じ話を何度も繰り返すなど写実的に描写される。現実にいる酔っ払いは不愉快なだけだが、落語の登場人物としての酔っ払いは観客を笑わせるために酔っている。

 

 

織田正吉『笑いとユーモアのセンス』「第1章 商品としての笑い」岩波書店、15頁)

 

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本日、「第4回教育と笑いの会」に参加してきました。

初任研の指導教官におすすめされた中で、面白そうだったので、申し込みをしてみました。

初任研でも活用している本の著者、野口芳宏先生も登壇されるとのことで、楽しみにしていました。

岐阜聖徳学園大学教育学部の玉置先生が進行役で、冒頭から笑いが起こる挨拶でスタートしました。

初めに、『野口先生の(しっかり)笑える教育の話』があり、野口先生が紹介されると、なんと、僕の隣の人が「はい!」と言って、壇上へ向かいました。僕の隣に座っていた人が、野口芳宏先生だったのです!びっくり…。

 

野口先生の実体験の話を聞きました。

子どもが自ら考えて、自ら行動することの一例を挙げられていました。笑いを取りながら。

野口先生の子どもに対する言葉がけ、考え方も面白かったです。

 

その後、『志水廣先生の(微妙に)笑える話』、『大西貞憲先生の笑えない(笑ってられない)教育の話』、『池田修先生の(笑える)教育ワークショップ』が続きました。どれも面白く、短時間だったのが残念でした。

 

そして、この会で、人生で初めて落語を生で見ました。

桂雀太さんと、林家花丸さんの落語です。

どんどん落語の世界へ引き込まれました。まさに、演劇のよう。一人で演じているのに、何人もの登場人物が出てきて、一人じゃないような錯覚を覚えます。あたかもその場にいるかのような錯覚。

とても面白かったです。古典落語も、その方のアレンジが加わって、より面白さが増します。

林家花丸さんは、人情噺でした。ラストの展開に思わず胸が熱くなりました。

また、生で落語を見たくなりました。

 

最後のシンポジウム「教師修行と落語家修行の接点」は、所用で途中退席したので、聴くことができず残念でしたが…。

 

第5回教育と笑いの会は、北海道で開催とのことで、とても無理なので、第6回に期待。

 

 

 

 

 

教育実践に、大いなる自信と疑問を持て

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 贈り物をもらって、それに感謝しつつ、「物」で返さないのは、その分だけ「心」の関係を維持することになる。友人間の一心同体関係を強調するとなると、返す返さないなどは意味を持たない。とは言うものの、そこは人間の悲しさで、相手から何らかの返し、あるいは何か別の機会の贈り物などがまったくないとなると、なんだか関係がぐらついてくる。ほんとうに喜んでいるのかな、とか、友人関係を何だと思っているのだろうということになってくる。

 確かブータンだったかと思うが、日本人がブータンの友人に相当な贈りものをしたが、あまり感謝の言葉もないし、日本人が何となく期待していた相手からの贈りものもない。この地では、もらいっぱなしになるのかと思っていたが、十七年経って、その相手から立派な贈りものを受け取り、以前の礼を言われて驚いてしまった。わけを聞くと、この地ではすぐに物を返すのは失礼で、友情がほんとうに確かになって、物によって関係が乱されないようになるまで、心の関係を保つことが大切だと聞かされて、感心したとのこと。それにしても十七年というのは凄いと私も感心してしまった。実はこれはどこかで読んだ話で、いろいろ探してみたが原文が見つからず、私の記憶違いがあるのかもしれないが、御寛容をお願いする。

 

 

河合隼雄『大人の友情』「友情と贈りもの」178-179頁、朝日文庫

 

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この仕事をしていて、ふと思うことがあります。

高校卒業して就職した会社は、鉄を加工して売って、給料を頂いていました。何かを作り上げて、それを販売し、ボクの給料となる。

この仕事はどうだろう。何をつくり出している。。。と考えると、大きな責任感と自負を感じるわけです。

大先輩は「教育実践に、大いなる自信と疑問を持て」と、言われました。

今の自分の実践に自信を持つとともに、果たして目の前の子どもたちの姿が本当に見えているのか、本当に寄り添っているのか、そして、子どもたちが逆境に負けないチカラを身につけているのかどうかを総点検することも怠ってはいけない。

 

先日、学級通信100号を記念して、子どもからプレゼントをいただきました。

何でお返しできるか。

 

明日からもがんばろう。

 

 

 

大人の友情 (朝日文庫 か 23-8)

大人の友情 (朝日文庫 か 23-8)

 

 

自分で変わろうとしないで、子供にだけ変わることを求めるーーーこれが教師の原罪

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 私はかつて書いたことがあるんですけども、教えるということは、子供が何かを学んだ時に初めて完結する営みなんです(『教えるということ』国土社刊)。一定の定められたことを「教え」て、時間割の枡目をうめても、それで教師はその任務を果たしたことにはならないわけですね。授業は、持ち合わせの知識の量の多いはずの教師が、それの乏しいはずの子供に知識を分けてやることであるかのような観念がある。とんでもない迷妄です。私は、教師に求められる第一の資格は、教える技術や能力ではなく、学ぶ能力だと思っています。教育が可能になるのは、要するに、教師がちあきちゃんならちあきちゃんと一緒に生きているうちに自分の考えを訂正して、変わっていくときです。自分で変わろうとしないで、子供にだけ変わることを求めるーーーこれが教師の原罪だとこのごろつくづく思います。私は、授業というものも、教師と子供が一緒に生きる場にならなければならないと考え始めました。そういうものとして授業をとらえ直すことが、学校がいままでの教育の方向を転換するきっかけになるんじゃないか、私はそんなふうに思います。

 

 

(『教えることと学ぶこと』(対談)灰谷健次郎、林竹二、35-36頁、小学館

 

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昨日、地区運動会に参加してきました。久々に、母校の運動場を走りました。

3年前、我が母校が閉校。昨年度から、チャレンジスクールとして、校舎が使われています。少子化の進む町に、若い人たちの姿が見られるようになりました。再び、母校に人が集まっていると思うと、嬉しいです。

 

地区運動会には、このスクールの学生さんたちも参加していました。準備や片付けなどに走る姿が見られました。

夏まつりにも、屋台を出していました。こうして、地域に入り、地域の方々とふれあうことは、とてもいいことだと思います。出身地ではないけれど、通っている学校の地域の方々とふれあうことで、母校への誇り、愛着も深まると思います。

 

私も、勤めている小学校区の地域行事には進んで参加しています。そこには、地域の方々はもちろん、保護者や子どもたちもいます。学校外での子どもの姿も見ることができますし、保護者といろいろなお話もできます。子どもたちは、学校だけでなく、家庭、地域の中で育っています。我が家族、我が地域に対して、胸をはって誇れる人になってほしい。決して、自分の家族や生まれ育った地域を否定的な見方で社会に出てほしくないという気持ちがあります。世間は、厳しい差別社会でもあります。その中に飛び込んでいく子どもたちが、世間と同じような差別の眼で、我が家族や故郷を見てほしくありません。

ですから、子どもたちには、家庭や地域の中で、さまざまな人と出会い、人と人との関係の中で、自分の生き方を考え、学び続けていってほしいと思います。

今、3年生でも、地域学習を展開しています。単なるカリキュラムとしての学びではなく、子どもにとって意味のある学びにしていきたいと思います。

そのために、私も地域の中に入り、保護者や地域の方々と一緒に考え、共に子育てをしていくスタンスをとっていきたい。教育に携わる者として大前提だと思います。

まだまだ学び続ける教師でありたい。

 

 

と、言っている私ですが、自分の地元の地区運動会に本格的に参加したのは初めてです(笑)

地区対抗の競技に参加しました。まず、綱引き。まさに、全力を出し切ったといっても過言ではないほど、死力を尽くしました。が、1回戦敗退。終わってからしばらく腕が痛くて、物をつかめないほどでした。

明らかに運動不足です・・・。

他にも、宅配リレー。段ボール箱を5つ重ねて、運びます。この荷物がバトンがわり。我が地区は、3位。

満水競争も、3位でした。

久々に同級生や、教え子にも再会でき、楽しい運動会でした。終わってからは、地区の集会所で、反省会・打ち上げ。

我が地区も年々、子どもの数が減ってきています。でも、おじさんたちは元気!

若いボクも負けてはいけません。

 

 

ps,

全身で綱を引っ張った結果、運動会翌日は、背中、胸辺りが筋肉痛。腰も痛い・・・。

 

 

対談 教えることと学ぶこと

対談 教えることと学ぶこと

 

 

成長期にある若者たちにとって、苦楽を共にしてくれる人がそばにいるということは、絶対的に必要なこと

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「登校拒否がはじまるし、異常な行動もすっかり消えたとはいえない。ここから親と教師の苦難がはじまるのですが、この両者が、いうなら明日香さんと共にあることを、自らに課したところに大きな意味があるとわたしは思いました。親と教師の苦難といいましたけど、苦難を受けたのは明日香さんで、親と教師は彼女の苦難の一部を背負わせてもらったというべきでしょうね。人間にとって、特に幼い子どもや、成長期にある若者たちにとって、苦楽を共にしてくれる人がそばにいるということは、絶対的に必要なことだと思います。それがなくて、その飢餓感が強くなると子どもたちは病むんですね」

 彼女はしみじみとそれをいった。

 

 

灰谷健次郎『砂場の少年』140-141頁、新潮文庫

 

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夏休みに入りました。すでに、1週間が経ちました。

あっという間の1学期でしたが、夏休みもあっという間なんでしょうね。

よく「学校の先生は、夏休みに何しているの?」って聞かれますけど、いろいろあるんです…。

 

教師は学ぶことのプロでもあると思うので、学び続けることが絶対条件だと思います。夏休みに研修も多くあり、自身を磨く時期でもあります。講義を聴くことや、レポートを書いたり、自分の実践を振り返ったりして、学び続けます。

家庭訪問で、保護者とじっくり、子どものことや、今後の学習について、また教育に対する考えについてなどを語り合うことも。

幸いなことに(?)今年も、一切妥協を許さない先生方と一緒に研修する機会がありまして、“熱い”夏休みになりそうです・・・。

 

灰谷健次郎さんの『砂場の少年』に次のようにある。

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 教師が手を抜けば、そのぶん確実に見返りが突きつけられる。教育という仕事はそんなものかもしれない。

(149頁)

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1学期、ここまで突っ走ってきたが、夏休みに2学期の方向性を見定めていきたい。

そして、2学期も子どもたちと鍛えあって、苦楽を共にしていきたい。

 

 

読書も少しは進むかな。

 

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人の役に立ちたいと願う時にこそ、人間の能力が伸びる。

 

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 いま支配的な教育観は「自分ひとりのため」に努力する人間のほうが「人のため」に働く人よりも、競争的環境では勝ち抜くチャンスが高いという判断の上に成り立っています。私利私欲を追求するとき人間はその資質を最大化する。隣人に配慮したり「公共の福祉」のために行動しようとすると、パフォーマンスは有意に低下する(「嫌々やらされているから」)。それが現代日本において支配的な人間観です。

 だから、子どもたちの能力を上げようとしたら、とにかく苛烈な競争の中に叩き込めばいいと教育行政の人たちは考えている。評論家たちも、メディアも言い募っている。学習成果を数値的に公開する。順位格付けに一喜一憂させる。買った人間には報酬を、負けた人間には罰を与える。勝者が「総取り」し、敗者には何も残さない。そういう「弱肉強食」型のストレスをかければ、子どもたちは生き残りをかけてめちゃめちゃに勉強するようになるだろう、と。教育を論じる人たちはそういうふうに考えてきた。

 でも、やってみたら、そうはならなかった。なるはずがないんです。繰り返し言うように、人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。人の役に立ちたいと願う時にこそ、人間の能力が伸びる。それが 「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適正」に合うかどうか、そんなことはどうだっていいんです。とにかく「これ、やってください」と懇願されて、他にやってくれそうな人がいないという状況で、「しかたないなあ、私がやるしかないのか」という立場に立ち至ったときに、人間の能力が向上する。ピンポイントで、他ならぬ私が、余人を以って代え難いものとして、召喚されたという事実が人間を覚醒に導くのです。

 

 

内田樹『街場のメディア論』「第一講  キャリアは他人のためのもの」29-30頁、光文社新書

 

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運動会が無事に終わりました。

子どもたちは、「自分のやくめ」は何かを考えながら、練習をがんばっていました。本番もよくがんばりました。

遠足や、運動会、その他さまざま行事がある中で、「何のために」するのか。「自分のやくめ」は何か。をはっきりさせることは大切だと思います。ただ楽しむだけではいけない。お遊びではありません。

そして、「やくめ」を果たせたという成功体験。「自分は役に立っているんだ」という実感を得ることで、自信になり、次のチャレンジへと向かうことができると思います。

 

運動会が終わって、今日は振替休日。

平日に休みというのは、なんだか気分がいいですねw

久しぶりに、ゆっくりと過ごしました。(学級通信を作りに職場へ行きましたが、いつもより短時間の滞在です。)

最近は、伊坂幸太郎にハマっていますが、先日、BOOKOFFで購入した内田樹さんの『街場のメディア論』を読みました。

すると、序盤にキャリア教育のことが論じられていました。「まさに!」という感じです。最近の教育界が進んでる方向が危ぶまれる中で、前職場の校長も同じことを言っていました。

 

子どもは、人とのかかわりの中で、育っていくものです。人とのかかわりの中で、人とのかかわり方を学んでいきます。

 

久々に目から鱗です。

さすが、内田先生。

 

 

 

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

 

 

 

 

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メンバー同士が互いに好感をもっていて、一緒に何かできることに喜びを感じていること

 

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    会社であれ、組合であれ、政党であれ、学校のクラスであれ、クラブであれ、はたまた趣味のサークルであれ、環境保護のための市民団体であれ、組織や集団がその目的を実現するためには、メンバーになっている人々全員が、所属している集団や組織に対する所属意識が高く、自分がなすべき責務を遂行しようとする意欲が強くなければならないのはいうまでもない。しかし、それだけでは不十分で、集団や組織が長く続き、しかも次第に良い方向に変わっていくためには、メンバー同士が互いに好感をもっていて、一緒に何かできることに喜びを感じていることが大事なことである。成員がそういう感情を持っていれば、一人ひとりが集団や組織をもっと良くしようと、意欲をもって動くようになるということである。
    同じことは、社会全体にもあてはまる。その社会で生まれ、そこで育ち、今を生きている人々全員が、この社会に生まれてよかったと思い、いまこうして生きているのが幸せだと感じているとしたら、社会は、自ずと、全体として、しかるべき機能を十全に果たすことになろうし、社会がそういう状態にあれば、われわれは社会に凝集力があるということができよう。
    しかし、社会がこのような状態に至るには、社会のメンバーがいくつかの条件を満たしていなければならない。その条件とは、端的にいえば、まず、社会の成員が互いに他者に関心と愛着と信頼感を持っていて、その上で、社会を成立させている要素を共有していることである。同じ言葉同じ意味で使い、ある位置を占める者は、自分がどんな役割を果たすよう期待されているかを了解しており、自分が行動する場がどのように意味づけられているかも分かっていて、自分が生活している社会がどんな社会であるかについてもイメージを共有している、といったことである。
 
 
(門脇厚司 『子どもの社会力』「Ⅱ 社会を成り立たせる人間の条件とは何か」69-70頁、岩波新書
 
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新学期が始まって、1ヶ月が経ちました。
新しい職場に移り、初任研も始まり、慣れないまま突っ走ってきました。少しずつ慣れてきました。が、連休明けからまた怒濤の日々が始まります…。
 
今までの立場とは違いますし、甘えていられないな、と思うわけですが、歓送迎会で先輩から
「どんどん甘えてよ。(新採の)今だからこそ、甘えられるし、いろいろなこと聞けるから」
と。
そうなんですよね。これまでまでの経験があるといえども、所詮は初任者。この立場をうまく使わないと、数年後に大きなしっぺ返しが来そうです…。
教育者は、学び続けることを前提としなければなりません。自らの不完全さを自覚しつつ、自らの力量を高めていきたいと思います。
今しか学べないことがたくさんあります。あり過ぎます。「次はもうない」という気持ちで、一つひとつの授業、研修を大切にしていきます。
時は金なり。
 
職場にも少しずつ慣れてきました。先週、歓送迎会も終わり、今の職場への所属意識も増してきました(笑
校内の研修も深めていきたいと思います。
 
 
ps,
学級においても、
「メンバー同士が互いに好感をもっていて、一緒に何かできることに喜びを感じていること」
は、学級経営の上でも重要であり、前提としてあるべきものだと思いますし、またこれを目指していくものであると思います。
友だちに無関心であれば、それは表面上の単なる「なかよしごっこ」
「なかよしごっこ」は不要。
人の幸せを共に喜ぶことができる子どもの姿を目指して。教育者は、その「補助者」「誘導者」「産婆役」であることを忘れてはいけない。

 

 

 

子どもの社会力 (岩波新書)

子どもの社会力 (岩波新書)