ただひたすら自分以外のものの幸福にひかれる気持、動物的な自我の幸福を否定してしまったそのあとで、人間のうちに、残る気持ち

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 真の愛―――これは選ばれた人、または、対象にむけられる愛のように、人間の個人的な幸福をほんの一時だけますようなものにたいする執着ではなくて、ただひたすら自分以外のものの幸福にひかれる気持、動物的な自我の幸福を否定してしまったそのあとで、人間のうちに、残る気持ちなのである。
 こうした祝福された感情を、この世に生きている人で、一度でも味わわなかったものがあろうか! 真実の生命をおしつぶしてしまうさまざまな偽りに、われわれの魂がまだくもらされていなかったほんのいたいけな子どものころには、実になじみのふかかった感情だったのではなかろうか! この祝福された感情に動かされると、人はすべてのもの―――その隣人も、父も、母も、兄弟も、悪人も、敵も、犬や、馬や、草までも愛したくなって、ただもうすべてのものがしあわせになればいい、いい目を見ればいいと、それだけを望むようになるばかりか、さらに進んで、すべてのものをこの自分の力で幸福にしてやろう、すべてのもののいつもかわらぬ喜びやしあわせのために、自分自身を―――自分の生命をささげつくそうと思うようになるのだ。これが、いや、ただこれだけが人間の生命にこもった真実の愛なのである。
 ほうとうの生命がこもっているという点で、かけがえのないこの愛は、まちがって愛とよばれているさまざまな動物的な欲望―――真の愛に似ているけれど、野生のままのあらあらしい雑草の芽ばえにまじって、人の心のうちに、わずかにそれと目につくくらい、ほのかに芽ぶくものなのである。はじめは、だれの目にも、その芽ばえは、(ゆくゆくは鳥のすむほど立派な大木にもなるだろうに)、ほかのいろいろな雑草の芽と、なんの変わりもないものに見える。いや、それどころか、はじめのうち、ぐんぐんと勢いよくのびていく雑草の芽ばえのほうに、かえって、人は心をひかれたりするものだ。たった一つの生命の芽ばえも、そんなことから、とかく、いじけて枯れてしまう。しかし、よくあることで、それよりももっと悪いことは、人々がこうした芽ばえのうちに、ただ一つ、愛とよばれるかけがえのない真の生命の芽であると聞いて、まちがってただの雑草の芽ばえを、ほんもののかわりに、後生大事に育てはじめ、肝心のほんものの愛の芽をむざんに踏みにじってしまうことである。いや、もっともっと悪いことは、人々があらあらしい手でその芽をつかんで、「これだ、これだ、見つけたぞ!もうわかった、育てようじゃないか!愛だ、愛だ!これこそ最高の感情だ!」と夢中になって叫んで、その芽を植えかえたり、ため直したり、つかんだり、にぎりしめたりして、さんざいじりまわしたあげくのはて、花も咲かせずに、枯らしてしまうことだ。枯らしておいてから、「こんなことは、なにもかも、ばかげたことだ、くだらんことだ、センチメンタリズムだ!」などと、そういった人たちや、ほかの人たちがいいだすことだ。愛の芽ばえも、はじめ芽をふいたばかりのときには、まだやわらかく、ちょっとさわられても傷つくくらいで、やはり、ある程度しっかりと成長してからでなければ、強いものにはならないのである。だから、そんなときに、へたに人が手をくわえたりすれば、いい結果を生むわけがない。愛の芽ばえの成長に必要なのはただ一つ―――理性という太陽の光がさえぎられたりせぬように、手をかしてやることだけである。


トルストイ・米川和夫訳『人生論』角川文庫)

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こんばんは。

愛とは何か。

ってなことを考えてる場合じゃないっす!w


大学の
レポートを一休みして、教員採用試験一本に集中しようと。。。


1日1日を大切に。

1日のリズムを大切に。

この2ヶ月間は、ホンマに勝負です。

試験どうのこうのじゃなくて、

自分自身との勝負です!

自分に勝つか負けるか!


先ほど、先輩が家庭訪問に来てもらいましたw

「勉強どう?」

ボクのパッとしない気持ちを察してか、

色々激励してくださいました。

ただ自分の中でスッキリしないものが残っているだけでした。

今日からリスタートです!!


これから、ブログの更新は、ちょっと放置状態になるかもしれませんが、

更新していなければ、

「お、勉強してるな」

と思っておいてくださいw


では。


人生論 (角川文庫)

人生論 (角川文庫)