なぜ「美徳」がまず私に要求され、まず「他者」には要求されないのか、それを相互性のモラルは説明することができない

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 もう一つの「自由の歯止め」として、ボーヴォワールは「美徳」を挙げているのである。彼女はこの美徳を「相互性」の上に築こうとした。主人と奴隷の相剋を乗り越える可能性についてボーヴォワールはこう書く。

 このドラマは一人一人が、他者を自発的に認知することによって解決されるだろう。つまり、一人一人がある相互的運動の中で、おのれと他者を同時に、対象としてまた主体として措定するのである。友情と雅量がこの自由たちのあいだの相互承認を実現する。だがこれは容易な美徳ではない。この美徳はまぎれもなく人間の達成しうる最高のものである。そしてこの美徳を通じて人間はおのれの真理のうちに身を置くことになるのである。この真理は絶えず企てられ、絶えず廃棄される戦いの真理である。この真理は人間が不断に自己超克することを要求する。別の言い方をすれば、人間が存在することを断念して、実存を引き受けるときにある正統的に道徳的な高度に達するのだ。この回心によって人間はすべての所有をも断念するだろう。(DS,p.188)

 一人一人がおのれの「実存する権利」、「大地を占有する権利」を声高に主張することを止め、「陽の当たる場所」への権利請求を自主的に撤回すること、それ以外に相剋のドラマを終わらせる方途はない。この点についてボーヴォワールの考え方はレヴィナスと大差はない(というより、誰が考えてもそれ以外に選択肢はない)。
 しかし、その「断念」を基礎づけるものは「友情と雅量」というきわめて曖昧な概念によってしか示されない。これは実践道徳の基礎としてはあまりにも不十分だろう。見知らぬ人間に対して「友情」を発揮することはむずかしいし、あのれを「貧しい」と思っている人間にはおそらく「雅量」を示す機会は訪れない。
 どれほど「正統的に道徳的な高度」に達する営みであろうとも、私と「他者」が等格であり相称的であることを前提としてモラルを構築しようとする限り、(そしてまさにボーヴォワールがしようとしているのは、そのことなのだが)そのモラルには決定的な脆弱性がある。それは、自由と自由が相剋的な立場で向き合っているとき、さきに矛を収めて、「友情と雅量」を示すのが、相手ではなく私でなくてはならない理由が私の側にはないからである。相手に対して「友情と雅量」を示さないからといって、私の主体としての基礎は少しも揺らぐことがないからである。
 なぜ「美徳」がまず私に要求され、まず「他者」には要求されないのか、それを相互性のモラルは説明することができない。
 相互性の上に上に倫理を構築することはむずかしい。というより原理的に不可能である。これはレヴィナスが「私と君」の相互性に基づいてその哲学を構想したマルチン・ブーバーを批判したときの中心的な論点であった。レヴィナスはこう述べている。

 ブーバーの場合、私が呼びかける「きみ」は、すでに、この呼びかけにおいて、私に向かって「君」と呼びかけるひとりの「私」として認知されている。それゆえ「私」による「君」という呼びかけは、すでにして「私」にとってはある相称性、等格性、公平性の創設であることになる。それゆえ、「私」としての「私」の知解、「私」についての十全的な主題化も可能性となるのである。汎通的「私」あるいは「自我」という概念はこの関係からただちに派生する。(…)しかし、私たちの分析では、他人への私の呼びかけのうちに他者がまず起源的に存するわけではない。他者は私の他者に対する有責性のうちに存する。これが根源的な倫理的関係である。(…)他者への有責性。それは自由意思に基づく何らかの行為がまずあって、それに条件づけられたり、それに規定されたりして、結果的に求められる有責性ではない。それは無償の有責性であり、人質の有責性に似て、相互性の要請なしに、他者への身代わりにまで行き着くのである。(HS,p61)

 相互性という考え方は、平たく言えば「私と君の立場は交換可能だ」ということである。だから、自分がされたくないことは人にもしない、自分がされてうれしいことは人にもしてあげる、という「合理的」な推論に基づいて道徳的な行動が動機づけられるのである(これはホッブスやロックの道徳観である)。
 しかし、相互性の道徳からは、どうやっても、「私はあなたより多くの責務があり、あなたは私より多くの権利がある」という言葉は導出されない。しかし、レヴィナスが求めているのは、まさにその言葉なのである。その点において、レヴィナスはそれまでのどの道徳哲学者よりも過激である。


内田樹レヴィナスと愛の現象学』文春文庫)

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あるご婦人の方から組織論っぽい話を聞く機会がありました。

一般的に、人は安心できる場所に集まる。

その安心できる場所とは、自分を認めてくれる場所。自分を認めてくれる人がいるところ。

ありのままの自分でいられる場所こそ、安心できる場所であると。

当たり前のような話ですが、改めて学ばなければならい点でした。

型にはめるなんて、もってのほかですね。

「こうしなければならない」
「〜しなければならない」

なにか強制的な雰囲気があると、自然と人は離れていく。

その内側にいる人間は、その雰囲気に気づかない。

内と外に区別するわけではないですが、
すべての人が楽しく、自分らしく輝いていくためには、
内外の温度差をなくし、すべての人の人格を認めていくことが重要なのでは。

「いい子でいなければならない」という雰囲気を知らず知らずのうちに作ってしまっている。
「いや、本当はそんなことないんだよ。ありのままのキミでいいんだよ」
っていうのが伝わらない。
口頭で伝えても、なかなか難しい。


何にしても、自分から変わることが前提で、相手のことをまずは認めていくこと。

人を傷つけたり、人に迷惑かけるようなことだけしなければ、何をしてもいいのだ!
という気概で接していきたと思いますし、自分もそのように、考え行動していくことが大切なのだなと思いました。

飾った自分でいるのは、苦痛です。
ありのままが気楽で、本来の自分の力を発揮できるもの。

それを相手にも認める。

大切な点であり、盲点でした。


すべての人が安心できる場所を一箇所に求めるのは難しいことですが、
それぞれの場所で、ありのままの「自分」とありのまま「相手」が対面できていれば、“その場”は安心できる場所に変わるんでしょうね。

その土地、場というのは、そこにいる人間で変わります。

今いる場所が、天国にでも地獄にでも変わるんですから。

いや実は、その場所が天国や地獄に変わるのではなくて、その場所にいる人の心が変わっているんでしょうね。

なので、結局のところ、“場所”は関係なく、大切なのは“人間”ということですね。

はい。ボク、人間です。そこのあなたも。


戦略も技術も学術も大切なんでしょうが、一番大切なのは、心(ハート)です。

すべてはここから、変えていこうと思う次第です。


今日も、心は、上がったり下がったりでしたw

心というのは、一瞬一瞬変わりやすく、変化しやすいです。

やる気に満ちていたと思ったら、次の瞬間には、無気力になってたり・・・。

これは、人間だから仕方がないことです。

なので、しっかりとした基盤というか、哲学というか、羅針盤みたいなものが必要になってくるんでしょうね。


日々、勉強です。


ps.
とある先輩と、
「最近、『三国志』読んでるんですよ〜」
なんていう話から、今読んでいる本のことや、読書は1冊それだけを読むのか、数冊平行して読むのか、などの話になりました。
ボクは数冊平行して読んでますが、『三国志』に関しては、一気に読んだほうがいいと思って、なるべく他の本は読まないようにしているんですが、
上の『レヴィナスと愛の現象学』は途中だったので、この本は平行して読んでます。

「なんか、タイトルからして難しいねw」
って言われましたが、仰る通り!
レヴィナス自身が難解ですから;
苦戦しながら読んでますが、面白いところはあります。
自分なりに、消化しつつ読み進めている感じです。

この人はこう言っている。別の人はこう言っている。
そしてレヴィナスは、こう言っているというような流れで進んでいます。

「なぜ「美徳」がまず私に要求され、まず「他者」には要求されないのか」
なんて、考えたこともなかったし、そんなことは考える必要もなかったという感覚でした。
しかし、
「それを相互性のモラルは説明することができない」
んですよね。。。

一見、当たり前のように思っていることが、「哲学」ではそれが覆されて「ん?」と考える場面があります。
この疑問に出会ったときが面白いのです。ボク的にはw
今まで素通りしてきたところで躓いたり、「そんなこと考えてもみなかったけど、実はどうなんだろう」という思索を深めていくことが哲学なんだと思います。たぶんw(哲学者の皆さん、ご指導よろしくお願いしますw)

しかし、あまりハマっていくと、今度は抜け出せなくなるので、要注意です。
そ、哲学には誘惑があるのです・・・。

本来、目を向けなければならないのは、現実社会です。
ボクらが生きているのは、教科書の中でもノートの中でもなく、今ここにいる世界、現実社会です。


・・・話が長くなりそうなので、今日はこの辺でw

今日もまとまらなかった;orz

では、また。


レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)