能力というモノは存在しない

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 福井東養護学校の子どもたちについて、もしも、「能力」というフィルターにかけてみると、「できないこと」ばかりの項目がえんえんとつづくだろう。
 ところがこれを、「実践」というレベルで見ると、じつに豊かな実践にあふれていることがわかる。
 まりさんだけでなく、ほとんどの子どもたちは、街に買い物にいく。あるいは、ガソリン・スタンドのお兄さんと親しくなって、車を洗うのを「手伝っている」子ども(彼も、もちろん、重複障害児であり、車椅子に乗っており、手足はかろうじてわずかに動かせる程度)もいる。みんなそれぞれが「仕事」をしているような表情で、何かを「やりとげて」いる(もちろん、手助けは大いに借りて、ということだが)。したがって、表情はみな明るいし、「自信」にあふれている。ここでいう「自信」というのは、「能力」があるという自信ではない。「自分」が、世の中に「非・交換可能」な存在として、しっかりそこに「いる」のだし、この社会で「いてよい」のだということへの自信である。

 「能力」という亡霊からのがれるには、そんなモノは存在しないということをはっきり認めることである。「能力」というのは、近代社会がさまざまな製品や商品の生産方式を特定の(ベルトコンベヤー方式の)やり方でさだめ、交換可能な商品を、交換可能な工程で製造するシステムをつくったときに、便宜的に、勝手に、でっちあげたものにすぎない。そんなモノはもともと存在していないのだ。

「やりたいことがある」
「どうやれば、できるかな」
「こうやれば、できるとおもう」
「じゃあ、それをはじめよう」

 これだけのことを、障害者も健常者も、おとなも子どもも、みんなお互いに呼びかけあい、それぞれが「できること」で助けあい、学びあっていく、そういう社会を創りだすことが、どうしてそんなにむずかしいことなのだろう。現代社会のこの行きづまりを打開するには、この道しかないということが、これほど明らかなのに。


佐伯胖『マルチメディアと教育』「能力というモノは存在しない」207頁−208頁。太郎次郎社)

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お久しぶりです。

29日−30日の2日間、秋期スクーリングということで、
大学の方に行ってきたワケですが、

毎度のことながら、
大変面白い講義でした。

科目は
「情報教育論」

今の社会は、情報社会といわれるように、
まさに、情報機器が発達し、朝から晩まで情報の中で私達は生活してるのだと感じます。


そして、
インターネットのみならず、新聞や手紙などにも情報が含まれていますね。
あるいは、(ネットとの違いはあるにしても)話し言葉の中にも。

デジタルだけじゃなく、アナログにも情報はあるということで、
身の回りは情報だらけです。
その情報を取り込み、判断して、行動しているし、
あるいは、自分が情報の発信源となることもあるでしょう。


情報教育とは、そんな社会の中で生きていく上で、大切な力を身に付けさせるものだと。

さまざまな情報から、自分に合った情報を集め、取捨選択し、判断する。
情報を発信する人も、人間ですし、発信するということは、必ず受け取る側の人間を想定して情報をつくり、送っているわけですので、
例えば、テレビ局や新聞社などによって、情報の中身も違ってくるわけです。
当たり前ですが。

その中で、何が本当で、必要な情報なのか、しっかりと自分の頭で考える力も大切になってきますね。
すべてを鵜呑みにしないということです。

情報教育は
「情報活用能力」を育成する働きかけです。

文部科学省によると・・・
「情報活用能力」とは、
・情報活用の実践力
・情報の科学的理解
・情報社会に参画する態度
の3つの要素から成り立ってます。

「実践力」とは、
情報を集めたり、まとめたり、あるいは創る力。
情報の創り手のことを考えて判断する力。
受け取る相手のことを考えて、表現したり伝えたりする力。
情報機器の使い方に関する技量
ということ。

「科学的理解」とは、
テレビや新聞にはどのような特徴があり、どのような仕組みになっているのかを知ること。
情報をよりよく使うためにどうするかを知ること。
ということ。

「参画する態度」とは、
簡単に言えば、モラル。
他人に迷惑をかけない姿勢。
他人と仲良く楽しくしようとする姿勢。
倫理観が重要になりますね。


ということで、個々人の主体的な姿勢が求められるわけです。

今や、小学生がブログとかをしているという、ボク、ビックリな感じですがw

そんな時代だからこそ、情報教育も注目されているということですね。

大切なことは、単に、パソコンの使い方や、仕組み。インターネットの特徴を学ぶことのみならず、
というか、「できる・できない」ではなく、
「やるべきか・やるべきでないか」が大切になると思います。

インターネットが普及してきました。
日常生活でも、ネットを使った便利な暮らしができますよ。
じゃ、みなさん、使えるようになりましょう!

これではこの先、大きな落とし穴があっても全然不思議ではないです。

どんどん新商品が発売される時代になりましたね。

ついこの間、新商品買ったばかりなのに、え、もう新しいの出てるの?!
なんてことは当たり前のようになってきました。

時代の流れに乗っかって、なんとか使えるようになろうとする働きは悪くないですが、
ただ、時代の言いなりになっているのは、どうかと思います。

時代は後戻りできないですからね。

消費者がしっかりと考える。
「このままでいいのか」
「本当に必要なのか」
「本当に大切なことは何か」
・・・

情報機器がどんどん進化し、技術がどんどん発達していくこと自体は、悪くないと思うし、良いことだと思いますが、
自身が考えること、思考を停止しないことは、心がけていかなければならないと思います。


要は、「何のため?」です。

何のためのインターネットなのか。
何のためにインターネットを使うのか。
何のための情報教育なのか。
・・・

「何のため」という本質を見失っては、本来の道から外れてしまい、
後々、大変大きな失敗・過ちを犯してしまう。
大きなしっぺ返しを受けることになりますヨ。



ロボットには出来ない、人間の力というものがあると思います。
もしかすると、一生懸命働いている人間が、あたかもロボットのように働かされているような社会になってしまうのでは…と考えてみたりする。
人間は、ミスをするのが当たり前ですが、ロボットにも出来ないことがあるはずですし、ここのところにもっと目を向けるべきなのではないかと思うわけです。

交換可能な「能力」よりも、一人一人の意志を基にした「実践」に目を向けたいと思うのです。

パソコンが使えるから有能だ。
ネットを活用できる人は能力がある。
逆上がりできる子は能力がある。
計算が早くできる子は有能だ。

と言われる社会・学校・コミュニティでは必ず格差が生じます。

一人では何もできない人間です。

本当に一人で生きていけるのか。

今、着ている服は、誰が作ったの?
昨日食べたコンビニの弁当は、誰が作ったの?
一昨日食べたカレーのジャガイモは誰が作ったの?
そのジャガイモを切った包丁は誰が作ったの?
お皿は誰が作ったの?スプーンは?

てな感じで、こんなレベルで見たときでも、一人で生きているのではないことが分かると思います。

これが当たり前なんですが、当たり前のことをちょっと見直してみることも必要かと・・・。


さて、来週も、秋期スクーリングです。

科目は
「理科」

スクーリングは次回で最後です。

大学の地で学べることに感謝しつつ、大いに学びたいと思います。


知ることで世界は広がる!!



ps.
アウトプットは、大切な教育活動らしいです。
いや、ホント、そう思います。
学んだことをそのままにするのではなく、自分なりに説明できるようになって初めて“学んだ”といえるのではないかと。
「あなたは、何を学んだのですか?」
と言われ、
「え〜っと・・・(笑顔)」
では、なんとも情けないw

学んだことを、他者に説いていくことで、自分もさらに学べるということです。
傲慢にならないように・・・。

学校教育でも重要なポイントとなると思います。


マルチメディアと教育―知識と情報、学びと教え

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