子どもたちの夢をかなえてあげることが、大人の役目だと考えられた

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 「英語の選択の授業を受けたいといったけど、先生は受けさせてくれない。選択の英語を受けるのは高校に行く人だけだという。廊下でもいいから聞かせてくれと頼んだが、だめだった。くやしくて、くやしくて、生まれ変わって私も高校に行くようになりたいと思った。生まれ変われなかったら、私の子供にだけはこんな思いはさせたくないと思った」(村松喬『教育の森1 進学のあらし』毎日新聞社、1965年、116ページ)

 これは、今から四十年以上も前に、熊本県の中学校二年生の女子生徒が書いた作文です。
 この作文が書かれた1965年には、中学校を卒業した人のうち、高校に進学する人の割合は、70%くらいでした。今では、96%とほとんどの中学生が高校に進学するようになっていますから、ずいぶんと違います。ところが、この作文が書かれた時代には、まだ三割くらいの子どもが、この少女のように、家が貧しいとか、家の仕事の手伝いをしなければならないとかいった家庭の事情で、高校に進学できなかったのです。今のあなたから見れば、こんな時代があったこそさえ、想像できないかもしれませんね。そして、こういう、学校に行きたくても行けない人がいた時代には、「なぜ勉強しなければいけないのか」ではなく、「自分は勉強したいのに、どうして勉強することができないのか」という疑問を感じた中学生が少なからずいたのです。
 この当時にも。「なぜ勉強するのか」という疑問をもった中学生はいたはずです。でも、そのころだったら、この種の疑問は、一種の「ぜいたくな悩み」と思われたことでしょう。というのも、それとは反対に、勉強をしたくてもできないことのほうが、「大きな悩み」と見なされていたからです。当時の人びとにとって解決すべき大問題は、勉強したくてもできない子どもにもっと勉強できるようにしてあげることだったのです。だからこそ、「だれもが高校に行って、もっと勉強できるように、高校の数を増やそう」とか、「家庭の事情で勉強をあきらめなければならない子どもがいなくなるように、社会全体をもっと豊かにしよう」とか、そう考えて、高校の数を増やしたり、経済の成長を促したりする政策がとられたのです。もっと多くの子どもたちが、もっと長い時間学校に行って勉強できるようにしよう。そういう子どもたちの夢をかなえてあげることが、大人の役目だと考えられたのです。


苅谷剛彦『学校って何だろう 教育の社会学入門』「第1章 どうして勉強するの?」27−29頁。ちくま文庫)

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今と昔は違う。

それはそうですが、“知る”ことは大切です。

何でもそうですが、本質を見抜くためには、その“背景”となる部分に目を向けることも必要かと思うわけです。


戦前の日本では、女性が大学に入学することなんて稀で、
国立大学の在学数は0だったらしいです。

また、上記にもあるように、経済的な理由で進学できなかったり…。

教育はごく一部の人しか受けられなかったのです。

ボク個人の思いとして、
国民一人一人が正しい教育を受けてこなかったがために、
あの悲惨な戦争が起こったとさえ思えてくるのです。

時代は変われど、今も、正しい教育を受けないと、社会で生きていくのに困ることがありますし、なんせ詐欺(日常生活から政治に至るまで)が多いこのご時勢。
正しい知識と正しい倫理観をもっていかないと、騙され、やがてその人の“不幸”に繋がるでしょう。

教育の目的は、“幸福”ともいえる。

一歩間違えれば不幸に引き落とされるこの社会にあって、
一人一人が安全に幸せに生きていくために、また、そんな社会を主体的に創っていける「知と心と体」を育成していくのが、“教育”だと思うわけです。


今の日本は、国民主権ですが、その権力も正しく使わないと、
また昔のようにごく一部の人が得をし、悲惨な状況に転落する可能性があります。
せっかくの権力も無駄にしてしまうことになる。

そうならないようにするために、教育が大切になるんでしょうね。

ということで、

日本国憲法では、
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」(第26条第1項)
また、
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(第14条第1項)
としています。

この規定を受けて、教育基本法では、
「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」(第4条)

これが、紙の上での理想にとどまることなく、
国民一人一人が自覚し、実現に向けて働きかけることが大切だと思います。

まずは、“自分から”ね。



ps.
今週末も秋期スクーリングです。
これが、最後のスクーリングとなります。
次に大学へ行くのは、卒業式の日でしょうか。
これが最後だと思うと、寂しい気持ちもありますが、
一歩一歩、着実に進んでいることも実感しております。

恩師曰く
「大学は大学へ行けなかった人のためにある」
この意味は、様々に受け止めることができると思いますが、
大学の地で学友と共に学べることに感謝したいです。
そして、生まれ育った地で自身の使命の道を進むことを強く思う。


「大学は大学へ行けなかった人のためにある」


学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)

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