いまだこりず候

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 先生の気持ちと生徒の気持ちのすれ違い。この違いの中に、教師の仕事、それに学校という場所の特徴が表れていると見ることができそうです。
 その特徴を明らかにするために、まずは「人の気持ちを理解する」とはどういうことなのかを考えてみましょう。先生が生徒の気持ちを理解するというケースにかぎらず、問題をもっと広げてみることで、教師の仕事の特徴をつかむことができるからです。
 たとえば、中学生同士、友だちの気持ちを理解するというのは、どういうことでしょうか。親が子どもの気持ちを理解するというのと同じでしょうか。もっと違う例を考えてみましょう。好きな異性の気持ちを理解しようとする場合。精神科医が、患者さんの気持ちを理解する場合。ラジオのパーソナリティが電話で人生相談をしてきた中学生の気持ちを理解する場合。カウンセラーが相談に来た不登校の生徒の気持ちを理解する場合。裁判官が、ある事件を起こした被告の気持ちを理解する場合。難病の患者さんの気持ちをお医者さんが理解する場合……。
 いろいろな例をここであげたのは、人の気持ちを理解するといっても、理解しようとする内容や、どうして理解しようとするのかといった目的、さらには理解の方法といった点で、それぞれに違いがありそうだ、ということをわかってほしかったからです。場合によっては、「相手の気持ちのすべてがわかる」ことが必要とされているわけでも、重要なわけでもない、ということもあります。としたら、先生が生徒の気持ちを理解するというのは、どういうことか。
 このようにいったん問題を広げて考えると、教師が生徒の気持ちを理解するとはどういうことか、その特徴もはっきりしてきます。中学校の先生は、教師という立場から、その仕事に関係する範囲で、生徒の気持ちを理解する必要があるのです。授業のつまずきの原因が、どこにあるのか。生徒は高校卒業後の進路をどう考えているのか。遅刻や欠席が多くなった理由は何か。先生にとって、教師の仕事と関係する範囲内で、生徒のことがわかればいいのです。親が自分の子どもの気持ちを理解するのとは、目的も方法も、理解したい内容も違って当然です。生徒の気持ちを全部わかろうと思っているわけではない。ですから、生徒の側から見れば、「先生は自分の気持ちをわかってくれない」と見えるのも無理ないことなのです。
 だいいち、生徒は心底から「自分の気持ちを先生にわかってもらいたい」と思っているのか。私にはどうもそう思えません。中学生くらいの年齢になれば、自分にまつわるさまざまな迷いやとまどいや不安や望みが複雑に胸の内にしまわれているはずです。それをはっきりとした言葉で表すのは、自分にとってもむずかしかったりします。簡単に人に相談できるような心の悩みなど、悩みのうちに入らないといっていいほどなのかもしれません。そういう言うに言えない心の奥底まで、あなたは学校の先生に理解されたいと思っているでしょうか。「話したいときのは聞いてもらえる」、そう思えるだけでも十分なのではないでしょうか。
 ところが最近、教師がどこまで生徒を理解すべきかの範囲が、広がりつつあります。いじめによる自殺や殺人事件など、マスコミで問題にされる事件が起きる。すると、「学校の指導が悪いからだ」。「同じような事件が起きないように、学校がもっとしっかり指導しなければいけない」。こういう意見がすぐに出ます。そんなとき、まっさきに、「教師は生徒を理解しているのか」が問題にされるのです。
(中略)
 現在(2004年の統計によれば)、日本の中学校には、全部で約25万人の先生がいます。これには、校長先生も教頭先生も含まれます。ちなみに、小学校の先生の数はおよそ41万人、高校の先生は25万人です。つまり、日本中で91万人の学校の先生がいることになります。およそ90万人といえば、赤ん坊から老人までを含めた日本の全人口のおよそ130分の1。つまり、日本人の130人に一人は学校の先生ということになります。しかも、130人のうちの一番すぐれた人が学校の教師になるというわけではないのです。
 この91万人という数をどう考えるか。たんなる数字にすぎませんが、ここから、教師という仕事を考えるときの大事なヒントを引きだすことができます。
 あなたは、こんなにたくさんの先生が全員、生徒のことをよく理解できる、「心の教育」の専門家になれると思いますか。これだけの教師がみんな、他の人の人生に影響を与える人物だということがあるでしょうか。赤ん坊から老人までを全部ひっくるめた日本人の130人に一人の割合だと思うと、それほど簡単でないことがわかるでしょう。学校の先生というのは、全部が全部、よりすぐりの特別な人ではないと考えたほうがいいでしょう。もちろん、そういう立派な先生もいます。ですが、全体としてみれば、普通の人がついている、普通の職業だと考えたほうがよいのだと思います。
 単純に数のうえから考えてみても、先生に何ができるのか、その限度がわかるでしょう。「あれも、これも」と学校に要求しても、十分期待にこたえられない。それは先生のせいでも学校のせいでもない。むしろ、そういう期待自体にいきすぎがあるのではないでしょうか。
 まじめな先生ほど、社会からまかされた大きな責任が重荷となって、疲れてしまう。疲れた教師たちにのしかかっているのは、社会からの大きすぎる期待や要求の重さです。130人に一人の割合で日本人にできること。そう考えてみると、先生の仕事も違って見えてくるでしょう。


苅谷剛彦『学校って何だろう』「先生の世界」153-155頁、166-167頁、ちくま文庫)

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本日、大学の科目試験(「生涯学習概論」)を受験してきました。
これが最後の科目となり、合格すればすべて単位取得となり、来年3月には卒業です。

そして、教員免許も取得できます。

来年の4月からは、もしかすると、講師として教育者の第一歩を印すことになりそうです。

教師のやるべきこと、責任の範囲、仕事量等々、
現実的な問題は多々ありますが、それは、やはり一人ひとりが“自分の頭と心で考えて抜いていく”ことが重要なのではないかと思います。

上の本に書いてあることは、“問題提示”ですね。
こうでなければいけない、という答えは(あるかもしれませんが)、はっきりしません。
要は、自分で考え、主体的な姿勢で問題解決に向かう努力をしていくことが大切なのではないかと思います。

教師も一人の人間ですので、学ぶ続けることは必須です。
ましてや、教育に携わっている職業なので、自ら学びとっていく、まさに「生涯学習」の姿そのものだと思います。


先哲の説くところによると、
「自分のようなものに満足してはいけない。さらに偉大な人物を目標として進みなさい。という謙遜の態度で生徒を指導し、そのためには自分のように努力しなさいと奨励することこそ、教師のしなければならないことです」
とあります。

そして、
「教師は努力することの模範となれ」
と結論付けています。

もう一度言うと、
教師も一人の人間です。
どこまでいっても、“人間”です。

失敗もするし、間違いもする。
しかし、努力することだけは怠ってはいけない。
という姿勢が大切なのではないかと。

その努力していく“癖”を今のうちから身につけていきたいと強く思うわけです。
立派な教師を、否、立派な人間を目指して。
前にも書きましたが、立派な人間という境地に到達できるかどうかはわかりません。
というか、目指していくその過程が最重要なんだと思います。

学ぶことを止めた瞬間から、堕落は始まりますから。
つまり、到達ということはないのだと。

生涯学習ですから。


何度、壁にぶつかり、
何度、凹んでも、
前を向いていきたい。



いまだこりず候。

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)