やっぱり他人と私はつながっている

        • -

あるいは、例えば電車のただ乗りというのをしているときに、車内に自衛隊の人が来ると、車掌さんに見えるんですよ。車掌が来た!というんでドキッとする。ただ乗りしていない人には自衛隊の人は自衛隊の人に見えるんですが(笑)。それはただ乗りをしているという何かが私の心の中にあるわけです。これが私の意識に影響を及ぼしている。今日でも、例えば入場料を払わずに入った人なんかは気がひけてるんじゃないかと思います。―――そう言うとみんなびっくりされませんか(笑)。今日は勿論、無料ですから心配せんでもいい。でも意外とドキッとするでしょう。そうすると隣に座っている先生の顔が怖い顔に見えてきたりする。
 人間というのはいろんなものを持ちながら、普通はこの日常の生活で全部やり抜いている。ここは非常に大事なところであって、日常生活の意識が明確で、この論理とか構成ができなかったらもう生きていけない。みんなそれで話し合いしてるわけです。
 例えば私が平田先生に今日十ドル借りたとすると、明くる日十ドル返さなければならないというのは、この日常レベルの論理です。ところがちょっと意識の下のほうへ行くと、例えば今日十ドルお借りして、明日平田先生が「河合さん、十ドル返してくれ」と言うと、「そんなの返す必要がない」。何でですかと言われたら、「いや、あれは昨日の僕が借りたんでしょう。今日の僕は関係ないですよ」といえばいい(笑)。こういうことは日常レベルの世界では通じないことになっている。でも、世間にも時効なんていうものがあるでしょう。時効というのは、だいぶ前にやった悪いことは、ある程度の年月がたつとなかったことになってしまう。そういうふうに考えると日常のレベルでもいろりろ面白いことが起こってくるんですが、もっと深く入るともっともっと面白いことが起こってくる。
 意識の少し深いところの体験を、皆さんが一番よくされているのは夢です。夢の中では空を飛ぶこともあるでしょうし、父親と思って話をしてたら知らん間に恋人になっていたりすることもある。それから先生が友人になったりとか、意識の下の方へ来ると、日常レベルで簡単に区別できていたことがだんだん曖昧になってくるわけです。もっと深く行くともっと曖昧になる。
 こういうことを組織的に、意図的に洗練して行った一つが僕は仏教だと思っています。仏教の本やお経を読みますと、どうもそういうことが書いてあるように思います。意識の中にだんだん深く入ってくると、私と村上さんとの間もだんだん曖昧になってくる。
 そんな曖昧になるものかと言われますけれども、人間は非常に面白くて、今度の村上さんの『ねじまき鳥クロニクル』もにもそのテーマがあるんですが、この本の中で、とあるバーで、歌手が舞台を終えたあと、突然ろうそくに火をつけて、その火に自分の手をかざしてジリジリと焦がすところがあるんですね。客はみんな驚いて、悲鳴をあげる人もでてきます。でも、考えたら手が焦げているのはその人なんで、客のほうはそれを見ても、ああ焼けてますな、こんがりと(笑)、と思えばいいんだけど、でも見ている方も熱くてたまらない思いをするというのは、やっぱり他人と私はつながっているわけです。そこが人間存在の面白いところで、それがどんどん深いところへ行くと全部つながってくるんです。


河合隼雄 対話集『こころの声を聴く』「9 現代の物語とは何か」対話者 村上春樹、239-242頁、新潮文庫

        • -


河合隼雄さんの見解です。

先日、先輩たちと懇談をしているときに、

他人と自分は深いところで繋がっている、という話題が出てきたので、ふと思い出し、読み返してみました。


ただ、「こういうことを組織的に、意図的に洗練して行った一つが僕は仏教だと思っています」という河合さんの意見には少々疑問です。

本当に、こういうことを深めるために仏教があるのか、

本当の仏教の目的はまた別にあるのではないか、と思います。

ボクも勉強不足ですし、
河合さんの仏教に対する見解についても詳しく知らないので、なんとも言えませんが・・・;


それはそれとして。

しかし、他人が手を火で焦がしているのを見ると、自分までもが熱いような気になり、思わず手を押さえてしまうのは、面白いもので、

やはり、他人と自分は繋がっているんだなと思います。

“人間”って面白いですね。


最近、先輩や友人とよくしている面白い話は、

「脳は騙されやすい」という話です。

このことについては、また別の機会に・・・。


では、また。

こころの声を聴く―河合隼雄対話集 (新潮文庫)

こころの声を聴く―河合隼雄対話集 (新潮文庫)