私の個性が本ものになるためには多くの影響が必要だった
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仏教には時節到来という言葉がある。人間に働いている仏の心を知るには時節を待たねばならぬの意味である。おなじように縁についても、それが理解できるのは人生の時節を待たねばならない。
基督教のほうでは縁という言葉はない。おそらく縁という言葉は基督教用語にはないであろう。しかしこの言葉がないからと言って一人の人間が多くの眼にみえぬ存在に助けられて生きていることを否定するのではないだろう。いや、むしろ一人の人間が人生の本当のありかたを知るためには有形無形の生命の助けが必要なことは基督教も肯定しているのである。しかし仏教の素晴らしさはこの縁の意味を積極的にうち出すことで、人間の本来もっている存在の様式を明らかにしたことにある。
戦後の傾向のひとつとして個性重視ということが言われてきた。今日でも一寸(ちょっと)した人生雑誌をひろげると然るべき文化人らしき人が「個性を大事にせよ」とか「個性を生かそう」ということを強調している。
しかし私はこうした猫も杓子も口にする個性というものを人間のなかであまり尊重しなくなってきた。
なぜか。
簡単なひとつの例をあげよう。私は小説家だが、今ふりかえってみると、まずしいながら私だけの作風をやっとつかむことができたのは五十歳になってからである。
しかし、その私だけの作風もふりかえってみると自分一人の個性でできたものではない。最初は先人の文章の模倣からはじまった。文学観についてもモーリヤックやグリーン、ベルナノスだの愛読した仏蘭西基督教作家たちの消しがたい影響の下に少しずつ出来あがってきている。
ひとつの果物が熟するためには大地の養分や太陽の光、農夫の助力など色々な力がそこに作用しているのだが、それとおなじように私の曲りなりにも文学とよべるものは多くの芸術作品のお陰を受けてやっと成立したものだ。
それを私は恥ずかしいとは思わない。まして私の作風が無個性だとも思わない。いや、逆に私の個性が本ものになるためには多くの影響が必要だったのだと思っている。言いかえると、私の個性を作る縁がより集まっていたと考えている。
(遠藤周作『生き上手 死に上手』「縁の神秘」268-269頁、文春文庫)
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縁というものは不思議なもので、また大切にしたいものです。
この出会いがどんな意味をもつのか、今は分からなくとも、いつか分かる時が来るのでしょうね。
色んな人と縁することで、自分自身の人格が陶冶されていくんだと思います。
そのうえで、それぞれの“個性”は尊重し、よりよい方向へ向かっていければいいと思います。
“個性”といっても色々ありますからね。すべてを肯定しちゃうと、社会は成り立たないと思ってみたり。
やっぱり、善悪の判断は間違えないように、慎重に、善の方へ個性を伸ばしていくことが大事かと。
ということで、今日は、友人とカラオケに行ってきました。
と言っても、数曲しか歌わず、ほとんどお話しです。
やっぱりね。対話って大事だなってつくづく思います。
対話なくして、共通理解は図れないし、発展もない。
それぞれの立場や状況は様々だけど、それを理解した上で、相手の幸せを祈っていきたいと思います。
対話から理解が広がり、偏見や差別はなくなっていく。
ある意味、“先入観”は意味ないなって思いました;
というか、先入観は持たない方がいい。
しかし、まぁ、日本ってのは、難しい国ですな〜;w
それも必然というか、ボクもこの国に“縁”して生まれてきたのでしょう。
この国、この地で生きていくと決め、その中での“縁”は必ず意味のあることだし、一切無駄はないと確信し、この厳しい社会を生きていきたいと思います。
今日も地球は普通に回る。
- 作者: 遠藤周作
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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