政治家とは徳を十分に発揮できる可能性を秘めた職業

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 では、キケロにとって美しく、尊ばれるべき生き方とは何だったのでしょうか。そこで出てくるのが「徳」という考え方です。古代ギリシャ、ローマでは勇敢、節制、矜持といった徳を身につけた人物が高貴な人物であるとされ、そうした高貴な生き方を目指すべきだとされていました。その中でもキケロは「政治の徳」を強調しています。政治家という職業こそが、もっとも偉大な徳を体現できる職業だと考えていたのです。

 キケロは次のように述べています。

 

 いなかる業といえども、新しく国を建設すること、あるいはすでに建設された国を守ることほど、そこにおいて人間の徳が神意に近づくものはない。

 

 国家を建設したり、既に樹立された国家を運営し、その存在を守り続けるという政治家の任務の中にこそ人間の徳がもっともよく発揮される、とキケロはいうのです。

 キケロは哲学者でありながら政治家でもあるという傑出した人物でした。そしてキケロは、自分が単なる哲学者ではなく、自らがローマの最高位である執政官を務めた政治家であったことを誇りに思っていたのです。それは、自分自身が祖国のために実際に貢献できたという喜びに由来しています。単なる哲学者が「正義とは何か」、「道徳とは何か」といった難問について、思索に耽っているだけなのに対し、キケロは国家という舞台で、正義や道徳の追求を実践的に行った政治家だったのです。

 キケロには政治という舞台こそ人間の諸徳が十分に発揮されるという確信がありました。それゆえに、キケロにとって政治家とは徳を十分に発揮できる可能性を秘めた職業だということになります。

 しかし、ここで「政治家こそが『徳』を体現する職業だ」などというと鼻白む方も多いのではないでしょうか。

 「うそつきは泥棒の始まり」といってもあまり信憑性はないかもしれませんが、「うそつきは政治家の始まり」といえば、誰もがリアリティを持って感じるといいます。それほどまでに国民の政治不信は根深いものがあります。確かに昨今の政治家の姿を眺めていると、うそをつくのが仕事なのではないかとすら思えるほどです。

  選挙前、その実現が危ぶまれる公約を次々と発表しておきながら、政権を奪取した途端に公約を撤回するなどということは、議会制民主主義を冒涜する行為にほかなりません。国民に現実可能な公約を掲げ、政権を担えば、その実現のために全力を挙げて取り組むのが政党というもののあり方だからです。政権を担った途端に、「こうした公約に縛られていては、国民のための政治を行うことが出来ない」などと言い出すのは、本末転倒であり、国民を愚弄する行為です。こうした行為がまかり通る世の中になれば、国民が政治不信に陥るのも無理はありません。

  しかしながら、現在の政治家のレベルが低いからといって、政治家そのものを否定してしまってはなりません。自らの私利私欲のためでなく、天下国家を論じ、自らの不利益を顧みず祖国を守る政治家。かつてはそうした政治家が幾人も存在していました。

  政治家のレベルが低いのが問題なのであって、政治家そのものが問題なのではありません。現在でも政治という舞台は、徳を発揮する可能性を秘めた舞台であり続けています。

 

(岩田温『逆説の政治哲学』「第1章 政治はこうしてできている」64-67頁、ベスト新書、2011年)

 

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「政治家とは徳を十分に発揮できる可能性を秘めた職業」であればこそ、政治家の皆さんは、大衆よりも「徳」を備えてほしいですし、そのための「確固たる哲学」を心に秘めていてほしいです。

くれぐれも、権力の魔性に負けないようにね。

そして、ボクらは、流行に流されず、しっかりと見極めを!

 

 

ps,

「うそつき」はいけないよ。「うそつき」は・・・。(猛省;)

 

 

逆説の政治哲学 (ベスト新書)

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