「あれは何ですか?」「からかいです」

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 さらに話を進めると、「あってはならないこと」がありまして頭を下げると、頭のてっぺんがぴかっと光るという絵を何回も見せられた。学校の校長でも見た、病院長でも見た。私は県立病院長だったから、嫌な感じと思っていた。いろいろな所で「あってはならない」を繰り返す。JRでも「あってはならない」、原子力発電所でも「あってはならない」と。私は「あってはならないこと」という言い方がまかり通っている限り、「あってはならないこと」はずっと「あってはならないこと」のままだと思う。つまちは、アクシデントが止まらない。
 たとえば学校のいじめ、自殺。「あってはならない」ことが起きました。命の大切さを教育しましょう。児童の動揺がはなはだしいのでカウンセラーを導入します。まことに申し訳ありませんでした、で終わる。「本校ではかかる事態を根絶することを誓います」とは、絶対に言わない。
 その時の「あってはならないこと」というのは、文法的にもおかしいと思う。古い言い方に「あるげきこと」というのがある。逆に「あるまじき」という言い方もある。だけどこの「ある」というのは「is」であって、何々であるという状態を示す「ある」だ。存在する・しないの「ある」では絶対にない。
 だからかの有名な明恵上人が「あるべきようは」という教訓を、一〇ヶ条だか二〇ヶ条だか語った。ユング派の高名な心理学者が持ち上げているから、今の人にも膾炙している。あの「あるべきようは」というのは「心の持ちよう」という意味であって、どのようなありようをしたらいいのかということ。あっていいか悪いかではなくて、そのありようの良し悪し。「あってはならない」というのは「存在してはならない」としかとれない。昔の日本、たとえば戦前、何か大きな事故が起きた時に、「あってはならない」という日本語を使ったのかと思う。存在してはならないことが存在してしまった、これはおかしい。
  なぜおかしいかというと、それは実際に存在してしまった、出現してしまったんだから、今後も出現する可能性があります。それを防ぐ手段を考えなければいけないし、仮に出現した時にどのように対処するかということを、今後つくっていかなければなりませんというのが正しい回答である。
「あってはならないこと」思考から派生する最悪の例が、「本校にはいじめはございません」 。「あれは何ですか? 」と問われると、「あれはからかいです」という類。ついこの間まで平気で通用していた。今も、「いじめとは」の定義をしている。「いじめ」と「からかい」の違いについても、詳細に文書化したものが当局において用意されているに違いない。
いじめられた奴が「いじめられた」と言えば、それで議論はおしまいだ。それで自殺すれば、いじめた奴等が加害者である。命を大事にしなかったのは加害者であり、断じて被害者ではない。「本校にはあってはならないことがありますから」と言う。その発想はやっぱり「 アグレッションがあってはならない、起こっちゃだめ、それが起きたなんて何を言ってるの!」と同じだ。
戦争はあってはならない、だから軍隊はないという、戦後社会を席捲したディナイアルの構造と、それはずっとつながっている。


(計見一雄 『戦争する脳 破局への病理』「第一章 否認という精神病理現象」25-27頁、平凡社新書、2007年)

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戦争する脳―破局への病理 (平凡社新書)

戦争する脳―破局への病理 (平凡社新書)