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もし自分が幸福に恵まれると信じれば、にこにこして仕事に励むだろうし、災害があっても微笑して我慢し、微笑を浮かべて再スタートを切るだろう

メモ 読書 哲学 独り言

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   迷信


 来年がどういう年になるかという真面目な記事を読んだところだ。雨の多い夏になろうという、誰もが想像している予測をしている気象学の専門家を含む、各分野の専門家の見解を紹介するものであった。最後の総括は、三流どころの預言者であるオールド・ムーアの予言であった。この予言には、残念ながら、感心しなかった。
 私は占星術を信じたいと思うが、信じられない。星占師のザドキールが未来との接触を保って予言できるように天体がそれぞれの位置をしめているのだと、できるものなら信じたいとは思う。ある星が「上流社交界のセンセーショナルな離婚騒動」を人々に予告するために百万マイルも軌道から外れて飛び出すというザドキールの考えは、いかにも自信ありげである。だが、正直言って、星がそんなことにかかずらうかどうか、とても信じられない。星が何のために存在するのか、星まで行ったらどんな様子なのか、私は何も知らない。でも星が単に南アフリカの鉱山株の値が上がることを、どこかの不愉快な株屋に警告するために輝いているのだとしたら、星空も美しいとは感じられなくなる。一般の人は空を見上げて、大空の下で自分がいかに卑小かと思うのだが、占星術の信者は天を見上げて、自分の圧倒的な偉大さを今更のように感知するそうだ。私は自分が信じていなくてよかったと思う。
 迷信家にとって人生は非常に油断のならないものらしい。先日、晩餐会の席で、私は、自分は溺死の危険にさらされたことがないとたまたま発言した。これが本当だったかどうか確信はないが、罪のない無邪気な発言に過ぎないと今でも思う。ところが、私に説明する暇も与えずに、そばに座っていた誰かが「木に触りなさいよ」とうるさく言った。でも足は磨いたオーク材の床に乗っているし、記事は磨いたマホガニ材のテーブルにある(テーブルに肘をつくと具合がよいと何かの本能が教えてくれたのだ)から、溺死の心配は無用だと私は抗議した。しかし、晩餐会で議論するなど論外なので、言われた通り、仕方なくテーブルを数回叩いた。それで罰が当たる事は無いと思う。だが、一体何者の怒りを宥めたのか知りたいと思う。
 木を叩くという迷信は、意地悪な悪魔が人の会話をいつも聞いていて、特に自己満足的な発言があると、それに反応するという考えに基づいている。「僕はおたふくかぜに罹ったことなしだぞ」と得意げに言う。悪魔は「わっはっは。そうだったかな。じぁあ、今度の火曜まで待ってみるがいい」と凄みをきかせる。無意識に人は運命の女神も人間的な弱点を持つと考えてしまう。池の側に立っている男が、「これまで池にはまったことなど一度もないぞ」と威張っているのを聞いたとき、たまたまそのすぐ背後にいれば、背中を押してやろうかという誘惑を抑えがたい。人にとっても運命の女神にとっても、抑えがたいけれども、もし男が木を叩いておけば、女神は誘惑を抑えてくれるものと、迷信の信者は考えるのである。
 運命の女神であれ、悪魔であれ、木について特別な感情を抱いていて、人が木を撫でるのを喜ぶ、とは無論だれも本気で思わない。同じく、迷信に疑っている人でさえ、運命の女神が、塩をこぼしたり、梯子の下を歩いたりすることに対して、そんなに腹立ち易いとは本気で思ってはいない。同じく晩餐会の席などで塩をこぼして、それを拾って左の肩ごしに投げる人は、別に迷信深いというのではなく、社交界で不手際をした場合に、よい作法の印とされている機敏な対応をしたに過ぎない。それでも、未知なるものの怒りを鎮め、禍をもたらすものの前で膝をかがめるのは賢い者の務めだと思う人は多い。罰が当たらないように、こういう一寸した習慣に従うことによって運命の女神に敬意を表すのである。形式だけの敬意であるが、それでも相手の権威を認めることでもある。
 まっとうなバランス感覚があれば、迷信の付け入る余地はない。「わしの乗った船に限って難破などせぬ」と言い、直ぐ慌てて木に触れる人がいる。何故そんなことをすのだろうか。次の文を目の前にするからだ。「亡くなった人にX氏がいる。驚くべき偶然で、氏は事故の数日前に、自分は難破の経験がないと語っていた。次の航海で、この発言が悲劇的に否定されるなどと、夢にも思っていなかった」木に触れた人はどこかでこんな記事を何度も読んだのを思い出したのだ。そう、この記事なら、もしかすると読んだかもしれない。だが次の文は絶対に読んだことがないであろう。「亡くなった人にX氏がいる。驚くべき偶然で、氏は自己数日前に、自分は難破の経験がないと、語っていなかった」この文なら、何回書かれても真実そのものを報じたものであったはずだ。バランス感覚を働かせれば、出来事の一方のみが記事になれば、それが不当に過大視されると気付くはずである。
 運命の女神はわざわざドラマチックなことをしようとはしない。というのが真実である。仮に、諸君や私が生殺与奪の力を手にしたとしたら、人目に立つような派手なことをしようと試みるだろう。例えば、なにげなく塩をこぼした人が次の週に死海で溺死するとか、五月に結婚したカップルが次の五月に同時に死ぬとか。しかし運命の女神は、人間が考え出すような小賢しいことを考え出すような暇はない。仕事を堅実に散文的にこなしてゆくのである。迷信がはやるのは、偶然起きたドラマのみが報じられるからに過ぎない。
 しかし、禍を回避するまじないもある一方で、積極的に幸福を招くまじないもある。私はこの種のまじないは信じている。と言っても、蹄鉄を家の中に吊っておけば幸福が舞い込むと信じているのではない。人がそれを信じるのなら、蹄鉄を吊れば多分運が開けるだろうというだけである。もし自分が幸福に恵まれると信じれば、にこにこして仕事に励むだろうし、災害があっても微笑して我慢し、微笑を浮かべて再スタートを切るだろう。そうすれば、自然に幸福になれるというものだ。


(行方昭夫 編訳『たいした問題じゃないが ―イギリス・コラム傑作選―』「ミルン(迷信)」184-188頁、岩波文庫、2009年)

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昔読んだ本をパラパラと読んでいたら、面白そうなものがあったので。


たいした問題じゃありませんが・・・w

タイトルにも引用しましたが、
本文の最後に、人生に向き合う上で大切な姿勢が示されてると思います。



人生には、不可思議なことがたくさんあります。

その中でも「無駄なことは一切ない、すべてに意味がある。」というのがボクの基本姿勢です。

「すべてに意味がある。」というのは、主体的な態度から得られるものであって、なんとかなるさ〜という運任せのようなものではない。

未来を創るのは自分の手であり足であり、身体です。意志です。

未来は決して、台本通りに決まっているわけではないと思います。


「他人と過去は変えられないけれど、自分と未来は変えられる」
これは、否定しがたい事実かと思います。



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たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)

たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)