ひとりの人間同士として、私と向き合ってくれたのだ

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 幼い頃の大発見、もう一度

 

 ノートの片隅、先生が赤ペンで走り書く文字は、ところどころ繋がっていたり、省略されたりしていて、小学生の私には少し読みづらかった。それでも私は必死に解読した。毎日欠かさず書いていた日記に、先生というたったひとりの読者がどんな「感想」をくれるのか、それが本当に楽しみだったのだ。一輪車に乗ったときのバランス感覚のゆがみ、二重とびの練習をしていたらできてしまったミミズバレのこと。特に事件の起こらない日常を、私はただただ綴り続けた。

 「日記というよりも、まるで小説を読んでいるみたいです」

 ある日、先生からそんな感想が返ってきたことがあった。その赤い文字が、頭の先から足の指までに染み渡っていった感覚を、私は今でもはっきりと覚えている。その文字だけをエンジンにして、原稿用紙百枚近くの小説を書いた。ただただ、自分の文章を先生に読んでもらいたかった。

 あれは、卒業式の日だったかもしれない。先生は、便箋三枚に及ぶ感想文を返してくれた。私は貪るようにその感想を読んだ。そして、何周目かで、気が付いた。

 便箋の中では、どの文字も繋がっていない。どの文字も省略されていない。これは自分ひとりだけのために向けられた文章なんだ、と。

 私はこのとき、先生が、「先生と生徒」ではなく、ひとりの人間同士として、私と向き合ってくれたのだと思った。そして、それを可能にしたのは、文章であり、小説なのだと知った。

 ものすごいことだと思った。大発見をしてしまったと思った。文章を武器にすれば、どこにでも行けるし、何にでもなれるのかもしれないと、小学六年生の私はヒーローにでもなったかのようにひとりで興奮していた。

 私の小説の原点はそこにある。

 私はいま、向き合いたい世界がたくさんある。向き合いたい人がたくさんいる。だから私は小説を書く。小学六年生のときのあの大発見をもう一度追い求めるようにして、私はこれからも小説を書きつづけていくのだと思う。

 

 

(朝日新聞、2013年1月22日付、『芥川賞・直木賞に決まって』 朝井リョウ「何者」)

 

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何者

何者