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記録に残る歴史的事実は、記録者の主観を通して形を与えられたものばかりである

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「歴史の流れ」という言い方がよく使われる。あたかも、歴史が確固とした実在の河のようなものであって、過去の世界から未来の世界へ向かって、一定のコースを滔々と流れ続けているかのように聞こえる。しかし、これは錯覚である。普通に言うような意味での歴史には、一定の方向もなければ、決まったコースもなく、最終のゴールもない。言いかえれば、歴史には法則はなく、発展段階もなく、したがって「歴史的必然」というようなものもない。さらにはっきり言ってしまえば、歴史は、誰でも手を触れて見られるような、客観的な実在ではない。問答無用の「客観的な歴史的事実」などというものは、厳密に言ってありえない。

 歴史は、われわれの意識の中だけに存在する、世界の見方、ものの見方の体系である。しかも、歴史という角度から世界を見、ものごとを見るというやり方は、人類すべてに普遍的なやり方ではなく、ある種の文明にだけ見られる、特殊な文明である。

 ここで歴史を定義してみよう。歴史とは、「人間の住む世界の、時間軸と空間軸の両方に沿った、しかも一個人の直接、経験できる範囲を超えた、言葉による説明」である。

 歴史というものは、言葉による説明なのだから、日付や地名や人名だけでは、歴史にはならない。年表は歴史ではない。データを歴史にするのは、歴史を叙述する側が、主観的に与える意味づけなのである。

 そもそも人間は、実際に起こったことなら何でも記録するものではない。あることを特に記録するには、それなりの動機がある。歴史の材料になる記録は、こういうことがあったと記録者が思ったという主観の記録か、こういうことがあったと読者は思うべきだという、記録者の意志の表現である。そういうわけで、記録に残る歴史的事実は、記録者の主観を通して形を与えられたものばかりである。

 

岡田英弘 『日本史の誕生』「第十三章 歴史の見方について」331-332頁、ちくま文庫)

 

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日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (ちくま文庫)

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