読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「民族」は、人間社会を喰い尽くすタチの悪い病

f:id:mind1118:20130526111056j:plain

 

 -----

 

森巣 えー、不肖、浅薄な知識の博奕打ちが、東京大学社会情報研究所の姜尚中教授の前で、不遜にも、私が考えてきた「民族」という名の病にかかわる報告を発表させていただきます。タイトルは、「民族幻想の正体」。

 よろしくお願いします。

森巣 はぁ・・・・・・。では、「民族」とはいったい何なのか。このことから考えていきたいと思います。まず、『広辞苑』で「民族」の項を引いてみると、次のように記載されています。

 

みん-ぞく【民族】(nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲とも必ず一致しない。

 

 ちなみに、小学館の『日本大百科全書』では、次のとおり。

 

民族 みんぞく ethnic group ehnic unit あえて定義すれば、他から区別されるなんらかの文化的共通項を指標として、互いに伝統的に結ばれていると自ら認める人々、もしくはほかの人々によってそのように認められる人々、といえる。この場合、文化とは言語、宗教、世界観、社会組織、経済生活、その他の生活様式すべてを包括する広義の文化とする。民族は、人間による人間自身の分類行為の一つであり、その意味では人種の観念と通ずるものがあるが、少なくとも今日では学術上、人種は人間の身体的特徴を基準にした人間範疇設定の試みであるのに対し、民族は基本的に、文化的特徴を指標にした人間範疇であるとして区別される。同時に、民族観念自体が文化の所産にほかならないということを忘れてはならない。(以下略)

 

 おそらく、日本でもっとも引用されることの多い辞書、百科事典での民族定義が右のようなものです。しかし、過去三十数年間、博奕を打つことにより糊口を凌いできた私には、何度読んでもよくわかりません。

 確かに、わかりにくい。

森巣 でも、例えば、姜さんがおっしゃっていたように、同じ在日でも、一世と四世ではまったく違いますよね。この場合、四世のほとんどが日本国家語を母語として育ち、「日本文化」の中で生きてきたわけです。彼ら彼女らの中で、韓国・朝鮮語を流暢に話せる人たちのほうが、きわめて少数派でしょう。すると、岩波書店広辞苑』の定義でも、小学館『日本大百科全書』の定義でも、明らかに彼ら彼女らは、「日本民族」の範疇に含まれてしかるべきなんです。だけど、彼ら彼女らは、あくまでも「韓国・朝鮮民族」の範疇に属する。

 そうですね。

森巣 彼ら彼女らが、日本国民として晴れて「帰化」しても、その置かれた位置に変化はないんです。それは、自死した新井将敬代議士の選挙ポスターに「四一年北朝鮮から帰化」と書かれたシールが、石原新太郎代議士(当時)の公設秘書によって、夜毎、数千枚もベタベタと貼られた事件からも容易に推察できます。

 あれもひどかった。

森巣 このように錯綜した民族概念には、その根っこの部分に、嘘があるのではないかと、私は考えます。民族概念とは、「西欧近代」の発明物です。「民族」は、文明、文化、国民、国家、人種などと同様に、早くても一八世紀の後半に、社会分析の道具として立ち上げられたものなんですね。

 いずれも、フランス革命やナポレオン以降の、国民国家創出に、深く関与した言葉ですね。 

森巣 前回の対談で話題になった、一九六〇年代の構造主義者、ポスト構造主義者たち、すなわちレヴィ=ストロース、ルイ=アルチュセール、ジャック=ラカン、ミシェル・フーコーや、ロラン・バトル、ジル・ドゥルーズジャック・デリダ、そして以上の人たちを批判しながら発展的に継承した構造主義者と呼ばれる人たちの研究によって、民族を始めとして、「西欧近代」に立ち上げられた、文明、文化、国民、国家、人種などの言葉群の持つ犯罪性が、次々に暴かれていきました。

 いずれも、「われわれ us」と「かれら them」を差異化する言葉ですね。そして、それらの言葉を使用するうちに、いつの間にか、「われわれ us」=「西欧人」が、「かれら them」=「西欧以外の野蛮人」を、抑圧・収奪するのに都合のいい理屈が、無意識的、自動的に、つくりあげられていくんです。

森巣 実は、「民族」という概念は、六〇年代の構造主義以降、すでに徹底的に解体され、また徹底的に批判され尽くした過去の残滓なんですが、それがどういうわけか、日本の人文社会の領域には、なかなか伝わってこなかった。いまだに、これに固執している学者たちが、日本には多いんですね。ちなみに、川勝平太は、『文明の海へ』(ダイヤモンド社)の中で、民族のことをこんなふうに定義しています。

 

 ―――民族とは文化を共有する集団である。文化とは暮らしのたて方、別のことでいえば、生活様式のことである。

 

 このほかにも、川勝は、『日本文明と近代西洋』(NHKブックス)で民族を「文化を同じくする」者と定義しています。しかし、もしも私の隣家に、街金の「極悪追い込み屋」が住んでいたとする。果たして、私とその「極悪追い込み屋」一家とは、「文化を同じくする」者なのか。川勝一家はどうか知りませんが、私の一家は彼ら彼女らと「文化を同じく」していないと信じるし、また、していてほしくありません。それよりも、もし自分がぱっとしない野球選手だったら、アメリカの2Aあたりでブルペン捕手をしている人間のほうが、よっぽど「文化を同じくする」者でしょう。

 博さんの場合、「文化を同じくする」者を見つけること自体、困難でしょうけど(笑)

森巣 では、言語を同じくする者が同じ民族なのかというと、先ほどの在日四世の話で、そうではないことは明らかです。私は佐渡が好きでよく遊びに行くんですけど、そこのじいさまたちの話す言葉が、まったく理解できない。では、佐渡島民は、「日本民族=日本人」に含まれないのか。そして、同じ島民でも、標準語のできる若い人は、晴れて「日本民族=日本人」と言えるのか。

 無理がある。

森巣 つまり、民族などという概念は、構造主義以降の学者たちが鮮やかに解体したように、成立しようがない。要は、抑圧と収奪の理念によって立ち上げられた、差異の政治学なのですね。「われわれ us」と「かれら them」の間に境界線を引き、「民族的」抑圧や収奪を容易にしていく。「民族」は、まさに、西欧近代が生んだ植民地主義・帝国主義の理論であり、概念なんです。

 そうですね。

森巣 そして、「西欧近代」が創造、捏造した概念の中でも、とりわけ「民族」は、人間社会を喰い尽くすタチの悪い病です。いわば、悪性腫瘍。思えば、一九世紀と二〇世紀の大量虐殺は、民族概念に直接的、間接的に影響されて起こっています。しかし、もし草の葉、草の根レベルでこの病を壊滅させれば、民族根絶やし(エスニック・ジェノサイド)も、民族浄化(エスニック・クレンジング)も、民族紛争(エスニック・ウォー)も起こりえないでしょう。民族概念がもてはやされた一九世紀、二〇世紀が、大量虐殺の世紀と呼ばれるゆえんです。

 

 

姜尚中森巣博ナショナリズムの克服』「第四章 民族概念をいかに克服するか」176-182頁、集英社新書、2002年)

 

-----

 

先日、「ヘイトスピーチ」という言葉を知りました。

これが現実かと、ショックを受けました。

そこで、ちょっと「民族」について本棚にあった本で改めて読み返した次第です。長い引用になりましたが、そもそも「民族」という概念は作り物で、それは、西欧近代が生んだ植民地主義・帝国主義の理論であり、概念だと。

 

朝鮮、韓国、あるいは中国のことを悪くいう人もいますが、

日本人、人のこと言えませんぜ・・・;

 

 

 

「ヘイトスピーチ」国連委が日本政府に改善求める - YouTube

 

ナショナリズムの克服 (集英社新書)

ナショナリズムの克服 (集英社新書)