「知りません。教えてください」

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 繰り返し申し上げているように、専門教育では、「どうしてこんな教科が存在するのか?」という根源的な質問はしてはならないことになっています。でも、現場ではいきなり「先生、なんでそこに突っ立ってるの?」という想定外の質問に直面することになります。若い先生たちは、こういうときに、どうすればいいのか習っていない。学校では、「習っていないこと」については「習っていません」と申告すれば、それ以上は咎められません。でも、現場は違います。「どういうふうに処理していいかわからない問題」にいきなり遭遇し、その現場で即断即決が答えを出さないといけない。気の毒ですね。習ったことを憶えておきさえすれば満点がもらえる試験に受かって仕事を得たら、そこは「習っていないことについて即答すること」が要求される場であったわけですから。

 そのための訓練を日本の学校教育は構造的に怠ってきた、というのが私の年来の主張であります。「どうふるまってよいのかわからないときに、適切にふるまう」能力の涵養こそが教養教育の眼目である、と。

 前にも申し上げましたが、別にそれほどむずかしい話ではないんです。それが「学び」の基本なんですから。

 わからないことがあれば、わかっていそうな人に訊く。

 それだけです。

 

 自分が何を知らないのか、何ができないのかを適切に言語化する。その答えを知っていそうな人、その答えにたどりつける道筋を教えてくれそうな人を探り当てる。そして、その人が「答えを教えてもいいような気にさせる」こと。

 それだけです。

「それだけ」というわりにはけっこう大仕事ですけれど。

 喩えて言うと、こんな状況です。

 道を進んでいたら、前方に扉があった。そこを通らないと先に進めない。でも、施錠してある。とんとんとノックをしたら、扉の向こうから「合言葉は?」と訊かれた。さて、どうするか。

「学び」とは何かということを学んできた人にとっては、答えは簡単です。

「知りません。教えてください」です。扉はそれで開きます。

「合言葉」というものはこれまでの道筋のどこかに置いてあったり、売っていたりして、それを自分はうっかり見逃したのだと思っている人は、あわてて来た道を戻ったりしますが、もちろんどこにもでき合いの「合言葉」なんか売ってはいません。学びの扉を開く合言葉は「知りません。教えてください」なんです。

 簡単なようでけっこうむずかしい。

 

内田樹 『街場の教育論』「第6講 葛藤させる人」119-121頁、ミシマ社、2008年)

 

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内田樹氏の著書3冊目。『街場の教育論』

目から鱗がポロポロと落ちていきますw

教育論の落とし穴。教育のビジネス。キャンパスとメンター。学位工場・・・等々、教育者には必読書かと思います。

この本にも師弟関係のことが記述してあり、興味深く読んでいます。

 

さて、教員採用試験まで1ヶ月を切りました。

新年度、4月から有難い環境に置いていただいているので、なんとしても今年は合格を勝ち取りたい!

残り1ヶ月で焦りもないといえば嘘になりますが、でも、落ち着いて勉強することが大切かと。まずは、1次試験突破を目指して。

 

分からないことは、「知りません。教えてください」と先生方に訊いていくことが、今後、ますます大切になると感じております。教採の勉強然り、現場での対応然り。

まぁ、何が分からないのかを言語化するのが、むずかしいんですがね・・・;

教育はチームで行うものである。

 

 

ps,

「知りません。教えてください」とは、学びの共同体の出発点ではないかと、このブログを書きつつ思ったわけです。

近年、注目されている「学びの共同体」

高等教育での教養教育の重要性が再認識されつつある中で、教養教育の根幹を成す、重要な機能があるのではないかと考えます。

“教育”の使命は深い。

 

 

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街場の教育論

街場の教育論