「礼」という真理を持つ者のみが人であり、それを持たぬ紅毛人は人でなく、夷狄であった

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 幕府機関である長崎奉行が、出島に常駐しているオランダ人に日本式の礼を強要するのも、書物による儒教知識として、礼こそ真理であると思いこんでいるためである。その真理をもたぬ(別系統の礼を持っている)異国人に真理を強要するのは、人として当然だと持っている。なぜなら「礼」という真理を持つ者のみが人であり、それを持たぬ紅毛人は人でなく、夷狄であった。このためかれらを人たらしめるべく自分の礼を押しつけるのである。

 

 

司馬遼太郎菜の花の沖(5)』「レザノフ記」200頁、文春文庫)

 

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「人間とは何か」と定義するのは、危険です。

それに当てはまらない者は、「人間」ではないということですから。

(「人間とは何か、どんな生き物なのか」と考える、生きていく上での様々な可能性を考えていくことは大切だと思いますが・・・)

 

価値観が全く違う人とは、分かりあえないのか。

そんなことはないと信じますし、現に文化、国籍、宗教、主義・主張が異なる相手と対話を繰り返し、戦争に踏み込まず、国交を結んだ方もいます。

分かりあえないのではなく、対話を通し、共通点を見いだしていく。また、同じ目的観に立ち、それぞれの立場でできることをしていく。その確認作業が「対話」であると思います。

 

また、言葉が違い、通じない相手でも、「音楽」によって共に肩を並べることができます。

「音楽は世界共通の言語だ」とはよく言ったものです。

本来、音楽とは、お金とは無縁のものだと思います。「売れる・売れない」は、全くの論外であって、本来、音楽は、人間性を高めていくもの、人間と人間を結ぶものだと思うわけです。

まあ、音楽といっても色々ありますけどね。遊び半分なのか知らないけど、何が言いたいのか分からないような音楽。中身のない音楽。哀音・・・。

それが悪いとかはまた別問題。選択するのは自分たちですから。

音楽が与える影響は、大きなものがあると思います。一人の人間の心をゆり動かすものであるならば、一国の社会全体へ与える影響もまた大きいものがあると思います。

 

 

 

菜の花の沖〈5〉 (文春文庫)

菜の花の沖〈5〉 (文春文庫)