何者やら分からぬが、人間たることだけは確かだと思われたい。

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僕はいったい自分の希望または職業を身に現したくないような気がする。あの人は何だか新聞屋みたようである。あの人は何だか役人みたようだ、何だか医者みたようだ、坊主みたようだというように、己の職業を身に現したくない。これははなはだ銘々の専門に不忠実のようである。落語家がよく言うように、屋根屋さんは終始くぎを打つ動作をするように、心及び身体が全くその職業を表示することは、ちょっと職業に忠義のようであるが、それは低い方の道の忠義で、高い方を知らぬのであろう。むしろ、何者やら分からぬが、人間たることだけは確かだと思われたい。その代わり人間として世を渡る以上は、もう一歩進んで、よし、その人がどうなっても、すなわち、職業があろうがなかろうが、用いられようが用いられまいが、そんなことは構わぬ。鋤を持っていても、筆を手にしていても、雑誌記者だろうが、新聞の種取りであろうが、肥え桶を担いでいようが、何だろうが、人間として世を渡るときは、社会を脱しても社会から爪はじきされても、人間として僕は僕で行くというくらいまで行ったならば、しめたものだ。達磨さんのように蹴っ飛ばしても、転ばぬというようになりたい。どれほどの辱めを受けても、僕は僕で行かなければならぬ。人を怨まず天を怨まず、毀誉褒貶、そんなことを気にせず、職業はどうであっても、一個人として、人間として世を渡るに、天を楽しみ地を楽しむというようになれば、実に満足な愉快な人であろうと思う。そこまで行くぐらいな考えでやったならば、どうだ、こうだという小さな不平はなくなってしまうものではなかろうか。僕は、道なる題の下に、ついにいわゆる世の道を離れても、自己の所信を貫き、自信のあるところを決行せよと絶叫したが、これはなはだ自家撞着の観あれども、すでに述べたごとく、僕は道なるものは、自己に存するもので、心外無別法とあるごとく、心外無別道と信ずるからである。


(『修養』新渡戸稲造/タチバナ教養文庫

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こんばんは。

大学に入学してから、読書を心がけ、
自身の修養となるような本を読んでいますが、
おかげで趣味が読書となりつつあります。

上記の本は、お世話になっている先輩から薦められた本です。

なかなかすごい本ですw

青年諸君は、読んでおいた方がいいと思います。

本からは、
時代を超えて、国境を越えて、
様々なことを学びとるができます。

ただ、漠然と読書を愉しむのもイイですが…
せっかく読むのであれば、自身の力となるように読書を愉しみたいと思います。

まぁ、読書も結構ですが、試験対策もしなければならないという焦りも多々…;

時間を見つけて、大学のレポート、教員採用試験の勉強、教育実習の準備等々…
前進していきたいと思います。


本以外で
学ぶことといえば、
人間関係の中で学ぶことは多し。ですね。

日々、子ども達からは学ぶことが多いですが、

人生の先輩たる地域のおじいちゃん、おばあちゃんからも学ぶこと多しです!

人生経験豊かな、苦労も、忍耐も、努力も、どこまでいっても追いつけないほど、人生の艱難を乗り越えてきた先輩方には、頭が上がりません。

戦後の社会で、黙々と頑張ってきた先輩方とは、今は時代が違うし、状況が違うので、真似することはできないと思いますが、
その体験・経験から学び、自身の修養とすることはできるはずです。

我以外皆我師。

自分以外師匠。

反面教師も含め、
全ての人から学ぶことはできるし、
感謝の気持ちを忘れずに、明日からも前進、前進、また前進の人生を歩んでいきたいと思う今日この頃…。



ps.
教師は、人間を教育する仕事ですので、
自分が、まず人間として、どこまでも人間として、成長し努力することの模範を示していかなければならないと思います。
ボクの尊敬する教育者は、
児童生徒に対して、自分のようになれという傲慢な態度ではなく、自分以上の偉大な人物を目指してゆけ、そのために、自分のように努力していけ。という謙遜な態度でないといけない。と言われています。
自分が完璧な姿として子ども達の模範となるのではなく、失敗もするし、間違いもある、そんな人間であるが、ただ人間として努力することを奨励してくことが教師の姿であると。
もちろん、失敗や間違いはあってはならないですが、残念ながら完璧な人間なんていないのです;
しかし、努力は誰にでもできるので、そこは人間誰にでも平等に持っている力だと思います。

「努力の天才」
そーゆーヤツにオレはなりたい!!