自分を救うのは、ギリギリのところ、いつでも自分自身です。

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「二宮先生は、私よりもみなさんのほうがよくご存じのように、いつも仕法を行うためには、“徳”を掘り起こさなければだめだとおっしゃっておられます。徳というのは、“働き”のことであり、“力”のことです。自然にも、人にもこの徳が潜んでいます。しかし、自然に潜んでいる徳を掘り起こすのは、あくまでも人です。人が決め手なのです。が、掘り起こす側の人そのものに、徳がなければ、自然の徳は掘り起こせません。そのためには、まず一人ひとりの人間が、自分の中にも徳が潜んでいるのだ、という自覚を持つことが必要でしょう。
 先生が、今日青木村の勘右衛門さんにおねがいしたのは、青木村の一人ひとりの人たちが、自分にも徳が潜んでいるのだということを、無駄骨を折ることによって発見してほしいということではないでしょうか。ほろびかけている青木村の自然の前に、そこに住む人々がうちひしがれてしまって、自然の徳を掘り起こす前に、自分の徳を掘り起こす気力を失っていたのでは、おそらく青木村は復興しないでしょう。
 この辺は、先生がおっしゃっている水車の考えにも通じます。放っておけば、川の水はそのまま下流に流れてしまいます。人間の役には立ちません。しかし、水車によって、点の理にさからい、水を田に引き込むのは、あくまでも人間です。水車という道具を考え出したのも人間なら、これを踏んで、田に水を引いたり、人間の生活に役立たせるようにしたのも人間です。ここには人の理があります。そういう人の理を、青木村には青木村の特性があるのだから、それを活用するために、まず荒地を耕せとおっしゃったのではないでしょうか。

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 さっき、私と同じだといったのは、かつての私がそうでした。この桜町の荒れぶりに呆れ果てて、三味線を弾いたり、酒を飲んだり、あるいは、みなさんもよくご存じのように、二宮先生の仕法を嘲笑っていました。しかし、それは、私が桜町に対して投げやりな気持ちを持っていただけでなく、私自身に対しても投げやりな気持ちを持っていたということです。つまり、自分に対する愛情がなかったのです。自分に対する愛情があれば、もっと本気で、あの頃でさえ自分の徳を掘り起こす努力をしたはずです。
 それが出来なかったということは、自分で自分を見限っていたのです。これほど、人間としてさびしいことはありません。自分を救うのは、ギリギリのところ、いつでも自分自身です。自分自身が、自分を見限ったのでは、もうカミやホトケでさえ救ってくれないでしょう。つまり、助かりたい、救われたいという気持ちが消えたら、それはもう生きている人間ではなく、死んだ人間も同じことです。


(『小説 二宮金次郎童門冬二/集英社文庫)

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崩壊寸前の村を救っていく二宮金次郎

人の中に徳がある。
土の中にも徳がある。

大地と共に生きた静かなる革命家。


金次郎の人生観、指導理念は
なるほど!と感心することが多々あります。

現代に生きるボクらにも大切なことを教えてくれます。

“今、この時代だからこそ”ってのもあり、
読んでいて胸に迫るものがあります。

お気に入りの本になりました^^

あと残り数十ページなので、一気に読みたいと思います。