問題児というのは、われわれに「問題」を提出してくれている

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 これらは確かに「問題」である。しかし、考えてみると、「問題」というものは、解決を求めて提示されるものであり、それを解くことによって得るところも大きいのである。もし、人生に「問題」がなかったら、それは生き甲斐のない人生ということにならないだろうか。人間は自分で「問題」をつくりあげたり、探しだしたりまでして、その解決に意味を見出しているとも言えるのである。
 問題児というのは、われわれに「問題」を提出してくれているのだ、と私はかつて言ったことがある。学校へ行かなくなった子は、大きい「問題」を親や教師に提示しているのである。それは「学校のあり方は今のままでいいのか?」、「お父さん、お母さんは結婚ということをどう思っているのか?」、「現在の社会はどこかひずんでいないのか?」というような疑問にさえつながってくる。彼らは、われわれにその「解答」を迫っているのだ。
 生徒に「問題」を提出して、生徒が解けなかったら叱るのに、生徒が提示した「問題」を解こうとしないばかりか、生徒を非難したりするのは、大人側がちょっと身勝手なのではなかろうか。親も教師も、もっと「問題」を解く姿勢をもつことが必要と思われる。そして、それは単にどんな「対策」によるかなどというのではなく、後にも述べるように、自分自身の生き方について深く考え直すことにも通じてくるのである。


河合隼雄『子どもと学校』岩波新書

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最近、河合隼雄さんの著作を読んでますが、
示唆に富み、大変勉強になります。

というわけで、
今週中には、レポート一通を完成させたいと思います!


問題児と言われている、その「問題」という言葉に注目することは、
ボク自身にとっては新たな発見というか、大切なことに気づかせてもらえたような感じです。

「問題」ということは、必ず「解答」が存在するということですよね。

子ども達は、何らかの形で大人や社会に問いかけているんでしょうね。

それを大人は一方的な見方ではなくて、多面的に受けとめ、
子どもと共に解決へ向けて努力していくべきなんでしょうね。

そして、
問題が“われわれ”にあるのだとしたら、しっかりと受けとめること。
謙虚の姿勢ですね。

大人の方が正しいなんて、そんな単純な上下関係はここには存在しません。

大人は、謙虚に学びとり、自分の生き方を深く見直し、訂正するところはちゃんと正さないといけないですね。

大人になるほど、特に男性は、自分の考えに非を認めたくない、頭が凝り固まった人が多いと思います。

とか言ってる自分も・・・;w

自分の間違いをしっかり受けとめ反省することって、結構ストレスになりますからね;

その辺りの覚悟をもってしないと、問題児との教育的関係は築けないでしょうね。

もちろん、子どもも謙虚に学ぶことが必要ですよ。

子ども中心の考えに基づく「子どものための」教育は、
子どもの言うことやることをすべて受け入れ、子どもの身勝手な傲慢な態度に繋がりかねません。

なので、学んだことによると、
「子どものため」ではなく「子どもの発達と形成」のための教育を心がけていくことが大切だと思います。

これらのバランスというのも難しいんですけどね・・・。


子どもと学校 (岩波新書)

子どもと学校 (岩波新書)