教室で本など見ていてはいけない

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 小学校で休み時間になっても外に出ずに、教室で本を読んでいる子が増えた。せっかくの休みなのだから、思い切り飛び回ったらよさそうなものだが、“よい子”は次の時間の準備をしたりするという。
 それを親が感心するのならともかく、先生までも“よくやりますね、あの子は”などとほめる。何のために休み時間があるのか、教師までわからなくなってしまったのだろうか。末世である。
 一時間の授業がある。いろいろなものが頭へ入ってくる。ちょうど黒板に字をあとからあとから書き込んで行くようなもの。あまりたくさんのことを一度に書こうとしても混乱して効果がない。
 適当なところまで行ったら、やめにする。そして、黒板を消してやる。せっかく勉強したのに消すとはもったいない。シロウトはそう考える。それどころかクロウトの先生までがそう考える。
 同じことを続けていると、効果が下がってくる。収穫逓減の法則といわれるものがある。同じものを作っていると、だんだん収穫がすくなくなってくることである。これは勉強でも同じ。
 朝から一日、きょうは数学だけ、あるいは国語だけと集中学習をすることもできるけれども、どんな酔狂な学校でも、そんなことを考えたりはしない。あきてしまって能率があがらないのは目に見えている。
 一日のうちに、いくつもの学科を勉強する。数学、英語、理科、音楽、国語といった時間割になる。問題はひとつの学科をしたあと、次の時間への切り換えである。数学の頭で英語の時間へ入って行っては、英語がよくのみこめないかもしれない。
 教室の黒板を消さないで、そのまま、次の時間の授業を始める先生はあるまい。
 十分間の放課は頭の黒板をふき消すための時間である。教室のことを忘れてはね回り、さわぎ回って、頭をきれいさっぱりさせる。そして次の時間に臨む。教室で本など見ていてはいけないのである。
 学校の勉強がうまくできるもできないも、この頭の切り換えにかかっていると言ってもよい。ただ校庭で騒ぐだけでもスイッチの切り換えのきき目はあるが、たとえば、水で顔を洗うというようなことをすれば、さらに頭がきれいになろう。つまり、頭がよくなるのだ。
 講演を聞いていると、三十分くらいまではいいけれども、そのあと、だんだん疲れてくる。収穫逓減の法則がはたらき出しているのである。もっと疲れてくるとコックリコックリを始める。もうとても聞いてはいられないと、体で示していることになる。
 場なれた講師なら、聴衆がすこし疲れ出したと思われるころ合いを見はからって、おもしろい話をはさんで笑わせる。笑いというのが、学校の放課、休み時間に相当するはたらきをする。笑うたびに頭の黒板がきれいになるから、倦怠を覚えない。笑っているうちにおしまい、となって、“時のたつのを忘れた”と言いながら帰って行く。
 笑いは頭をよくする。休み時間は頭をさっぱりさせる。切り換えのうまい人がいい仕事をするのである。


(外山滋比古『人生を愉しむ知的時間術』PHP文庫)

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前回に引き続き、外山滋比古氏の著作から。


朝の散歩は気持ちいいです^^

早起きしてから、勉強の時間も増えました。

自分で時間割を決めて、勉強する時間、読書する時間、自由時間等々、するべきことを決めて、一日一日を有意義に過ごしております。今のところw

なるほど、顔を洗うといいのか。

たしかに、起床時以外にも、勉強と勉強の間に冷たい水で顔を洗ったらスッキリするだろうね。

そして、騒ぎ回ることも頭を切り換えるのに大切なこと。
今の自分の場合は、近所をランニングすることでしょう。
ランニングの時間も割り振らなければいけないのか・・・;

あと、「笑い」
これも重要だな。
ありがたいことに、「YouTube」というものがある。
これも有効活用w


よしよし。


人生を愉しむ知的時間術―“いそがば回れ”の生き方論 (PHP文庫)

人生を愉しむ知的時間術―“いそがば回れ”の生き方論 (PHP文庫)