師の他者性は「私」を起点にしてしか「かたち」をとることができない

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 師が他者である、というのは単に師が私とは別人である、というような意味ではない。そうではなくて、師は弟子である私にはとても理解が届かない知的境位にいるのだけれど、その「理解の届かなさ」は、弟子である私に固有のものであって、私以外の誰も(師の知友も、ほかの弟子たちも)代行できないような「かけがえのない理解の届かなさ」だ、ということである。
 弟子の一人一人は、その弟子以外の誰によっても代替できないようなオリジナルな仕方で「師に理解が届かない」。そして、その事実が当の弟子たち自身の「かけがえのなさ」を根拠づけるのである。
 もし、優れた弟子には師を「理解する」ことが可能であるとしたら、理論的には、弟子が全員優れていた場合、彼らの「理解」はまったく同一のものに帰着することになる。そのようなn人の弟子たちのあいだに一斉的な理解が成立したとき、弟子たちひとりひとりの存在価値は一挙にn分の1になってしまう。彼らはかけがえのない弟子ではなく、「替えがいくらでもいる」弟子になってしまうからだ。だから、師が「理解を超えている」ことは、弟子の「唯一無二性」を基礎づけるために必須の条件なのである。
 師の他者性は「私」を起点にしてしか「かたち」をとることができない、というレヴィナスの言葉はそのような意味に解されるだろう。


内田樹レヴィナスと愛の現象学』文春文庫)

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この本、難解w


さて、
昨日、大きな山を越え、一段落しているところでございます・・・。

しかし、「学ぶ」という行為は終わりがありません。
それに、「学ぶ」ことの大切さも実感したわけでございます。

いつも思うのですが、
これは、終わりがなく、死ぬ間際まで続くものだと思います。

とはいえ、今後しばらく卒業まで
大学のレポート(残り1通)とスクーリング(2回)、科目試験(1科目)を残すのみとなりました。

そして、教員採用試験の勉強。

この2つを進めながら、ボチボチ読書もしつつ、残りの大学生生活を愉しみたいと思います。

あと、
ここしばらく、音楽も聴けていなかったので、
生活の供として“音楽”から元気(元気)・勇気(勇気)、ポンポッ・・・w
英気を養いながら、人生に彩を与えていければと思います♪

Def TechのNewAlbum『UP』も発売間近ですし、
この件に関しては、もう楽しみ過ぎて、テンションを抑えるのに必死ですww


音楽も読書、勉学も自分なりに工夫し楽しみながら生活していきたいと思う今日この頃。


ps.
ボクらは色々な社会、組織の中で生活していますが、あくまで主体性をもって活動していきたいと思います。
師の存在は有り難いですが、その存在が当たり前にならないように、
感謝とともに、そこから何を学ぶのか、自分と師の二者のみの関係を見つめていきたいと思いました。
要は、弟子がどういう姿勢でいるのか、自身の主体的な姿勢が問われるんですよね。
言われるがままの受動的ではなく、そして、知ったかぶりの傲慢な心にならないように気をつけたいと思うのであります。


レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)