早期「発見」の目的は、早期「対応」にあるのではなく、「理解すること」にある

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 ここまで考察してきたように、発達障害はその障害像があいまいで、かつ多様です。そのため書籍やインターネットで紹介されている発達障害の行動特性が、目の前にいる子どもの印象にピタッと当てはまるかというとそうではありません。それもそのはずです。
 私たち一人ひとりが固有の存在であるように、障害のあり方も常に個別の例でしかないからです。障害の種類や程度、性格、生活環境、周囲の接し方。それらによって、障害は、まったく異なった様相を見せます。
 書籍やインターネットの情報を読み、講演会に参加して、発達障害の行動特性を知ることは大変結構なことだと思います。参考になることも多いはずです。
 ただここでお願いしたいのは、発達障害という「診断名」に目を奪われて、目の前にいる子どもを「一人の子ども」として「見つめる」という大切なステップを見失わないでいただきたいということです。一つ間違えば「レッテル貼り」になりかねないからです。
 特に保育士や教師の皆さんは、診断が本務ではありませんが、子どもの普段の活動における様子、気持ち、友だち関係、そして成長を一番理解できる立場にあります。
 丁寧に観察していると、私たちにとっては何でもないことが発達障害の子どもにはとても重要であること、ゆっくり教えれば時間がかかってもできること、得意・不得意があることなどが自ずと理解できるようになります。そして日々の観察によって行動の特性が理解できれば、その背景にある子どもの「意図」や「思い」が見えてくるのではないでしょうか。
 現在、保育所に通う幹人君(仮名)は、友だちとの遊びのなかで、順番を守ることは理解しているものの、待つことができない様子です。でも、順番は守れなくても、皆との遊びに参加したがっています。また、保育士が自分の気持ちとあわない指示をすると、保育士に手を挙げます。しかし、手を挙げながら「イタイ」「バツ」という言葉を発しています。彼にはそれがいけないことだとわかっているのです。
 今、現場の先生方は大変なご苦労をされています。大勢の子どもを見るなかで、発達障害の子どものもつ生涯を理解し、見守りつづけるには、長い時間と根気と工夫が必要です。でも今よりほんの少し待つだけで、彼らの発達の豊かさに気づくことができるのではないかと思います。
ADHDのわが子と歩む」という手記のなかで、楠本伸枝氏は「乗り越えられない『九歳の壁』」と題して子どもの変化を次のように綴っています。

 三年生の二学期から、彼は変わっていきました。というより、彼の周りのお友だちが、変わっていったのかもしれません。「九歳の壁」をうまく乗り越えられなかった彼は、どんどん周りのお友だちとの距離が開いていきました。勉強の遅れも、この頃からは、すごく気にするようになりました。そう、考え方を変えれば、彼は彼なりに成長していたのです。成長していたからこそ、彼自身の悩みやイライラが、顕著になっていったのだと思います。周りのお友だちと自分の「違い」を、彼自身が感じるようになってしまったのです。彼がみんなと違う自分に気づき始めた時期で、情緒も非常に不安定になりました。
(楠本伸枝「ADHDのわが子と歩む」)

 ここで注意欠陥多動性障害の子どもをもつ母親の言葉を紹介したのは、発達障害の子どもが、環境に呼応して、自身の振る舞いを変化させていることをお話ししたかったからです。社会性に問題があるといわれる彼らですが、それは彼らなりの表現方法であることを知っていただきたいのです。
 今日、発達障害の支援の多くは、発達障害児の「理解」ではなく「対応」に力点が置かれています。でも本来、早期「発見」の目的は、早期「対応」にあるのではなく、「理解すること」にあるはずです。
 発達障害をもつ子どもたちの「いいところ」を見てあげてください。それを引き出すのは、他でもない周囲にいる人々の温かいまなざしです。一人の人として尊重し、向き合うことの重要性を強調して、第二章をしめくくりたいと思います。


(小西行郎『発達障害の子どもを理解する』「第二章 発達障害とは何か」80-83頁、集英社新書)

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やはり、「理解」することが重要。

認識せずして評価せず。



発達障害の子どもを理解する (集英社新書)

発達障害の子どもを理解する (集英社新書)