「これこそ直ぐなのだ」と錯覚させる怖れ
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念仏と禅という新しい宗教がこの新興の地で眼ざましく栄えている。日蓮に云わしむれば、この二つとも難解な学問や煩瑣な印契の神秘をはなれて、端的に「力」を問題にしている点で同じものであった。
一方は徹底した他力本願。
一方は徹底した自力本願。
人間は真理の前には絶対に無力であることを悟れというのが念仏。人間は修行すれば必ず真理の証を得る。自心すなわち仏と信じて、徹底してすすめというのが禅。
日蓮はその二つのいずれかにかたよることも実大乗から遠ざかることだと信じていた。
自力を否定するものも肯定するものも、共に力の必要を痛感しているからである。したがって、この両者の態度をもう一度高いところから綜合し止揚して、自力も他力も結局真理の表裏にすぎないことを悟らせるべきだと信じていた。
―――真理を行うはずの仏法は体であり、世間はその影である。ゆえに体がななめになれば、影も当然まがってゆく。
影がまがってゆくのを憂えて、体を正さずに影だけ直ぐにしようとしても無駄であった。いや、それは時に、影のまがりを憂うあまり、衆生の眼を狂わしてまで、「これこそ直ぐなのだ」と錯覚させる怖れがあった。そうなると、それは、何より大きな仏教への反逆となり学問の歪曲になってゆく。
(山岡荘八『日蓮』「第五部 獅子吼篇」273-274頁、講談社)
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同じ職場の先生のお父様がお亡くなりになったので、本日、通夜に行ってきました。
世間一般的に行われているように、お坊さんが来て、お経を唱える、それを聞いているという形のものでした。
聞いているだけというと誤解があるかもしれませんが;
もちろん、心の中でずっとご冥福をお祈りしておりました。
しかし、お葬式にお坊さんが来るというのは、なぜか違和感があります。
その辺りは世間とズレていると思いますが・・・;
お葬式に来て、お経を唱えるというのは、お坊さんの本来の仕事ではないという。
お坊さんにお経を唱えてもらわないと成仏しないとか在りえない話ですし、戒名も必要ない。
ただの金儲けの話。
といっても、現在のやり方を全否定するわけではないですし、一人ひとりの故人に対する祈りが一番重要なので、形式にこだわる必要もないと思います。
が、本来の仕事でもないのにわざわざ来るお坊さんもどうかと。。。
そして、そうしないと成仏できないと思っている人たちがいるのも、何とも言えない気持ちになったりします。
お金がもったいないと思うのはボクだけでしょうか。
最近は、友人葬や音楽葬、ガーデン葬などというものも出てきていますし、日本の一般的な葬式の形式は、歴史的にも浅いもの。
確かに形も大事ですが、それよりも自身の真心というか、故人を想う心が重要なのだと思います。
生命の最も不可思議な“死”について向かい合うわけですから、誤った認識は避けたいですし、生命の真理を明らかにする仏教にとって、やはり学問の歪曲は怖いものです。
“死”について考えると夜も眠れなくなるので、この辺でやめときますw
ps,
じゃ、そもそもお坊さんの本来の仕事って何なの?!
そもそも成仏って何?!
といった問題は、また後日・・・。
(勉強不足なもんでw)
世間知らずの若僧のつぶやきでした。
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