神がいないからこそ、僕は人間らしく苦しむことが出来るのだ。

f:id:mind1118:20130405205739j:plain

-----

 

―――君が愛してさえくれればいいんだ。

―――愛するといったって、……ねえ汐見さん、本当の愛というものは、神の愛を通してしかないのよ。

―――僕はそうは思わない。愛するということは最も人間的なことだよ。神を知らない人間だって、愛することは出来るんだよ。

―――でも、神を知っていれば、愛することがもっと悦ばしい、美しいものになるのよ。

―――じゃ君は、誰か信仰のある人と愛し合えばいいさ。僕のような惨めな人間を愛することなんかないさ。

 僕は憤ろしい気持ちに駆られて、毒のある言葉を叩きつけた。千枝子の背中が一層わなないた。

―――しかし、誓って、僕ほど君を愛している人間は他にいないよ。

 僕はそう言って二三歩足を運んだ。うなだれたまま、千枝子は僕の側に寄り添って歩き出した。片手に摘み取った花束をしっかりと握っていた。

―――そりゃ僕は孤独だし、孤独な状態は惨めだと思うよ、と僕は語り続けた。孤独な人間は、この戦争が厭だと思っても何も出来やしない、手を拱いて召集の来るのを待っているだけだ。そして召集が来たら、屠殺されるのを待っているだけだ。もし何か何処に組織のようなものがあって、戦争に反対する人間が一緒に力を合わせてこの戦争を阻止できるものなら、今の僕は悦んでそれに参加するよ。ちっぽけな孤独なんか抛り投げて、みんなの幸福のために闘うよ。しかしそんな組織が何処にあるんだろうね。僕は何も知らない。コンミュニストの連中はとうに掴まってしまったし、こんな強力な憲兵政治の敷かれている国では、どんな小さな自由の芽生えだって直に捥ぎ取られてしまうのだ。僕なんか、たった一人孤立して、思いたったままを打明けられる相手といったら、ほんとに君一人ぐらいのものだ。だからせめて、自分のちっぽけな孤独だけは何よりも大事にしたいのさ。

 僕等はなだらかな傾斜を登り、村の方を遥かに見下す小さな丘の上まで来た。僕等は草の上に並んで腰を下ろした。近くの畑の中で山羊が鳴き、乾いた道の上には轍の痕がくぼみ、遠くの森が陽を受けて青く光った。浅間山の頂上からは絶え間なく新鮮な煙が流れ、夏の空は限りなく高かった。千枝子は着ていたカーディガンを脱いだ。

―――神を信じている人間でさえ、と僕は言った。隣人を愛することが義務だと思っている人間でさえ、戦争に反対しないぐらいだもの、どうして他の連中にそれが出来るだろう。基督教徒が真先に反対したら、それが皮切りになって反戦運動が起こったかもしれない。原始基督教のローマの迫害だって、日本の切支丹の歴史だって、ああいう反抗のしかたは、彼等がやっぱり組織を持っていたからだと思うんだ。基督教にはそういう歴史がある、それが無条件で戦争を肯定して、大日本帝国のために祈るような世の中じゃ、個人個人の反抗なんか何の力もないだろうよ。僕はこんな御託を並べている自分が、実際には何もしないで、何も出来ないで、卑怯だとは思う。僕だって、もし君の沢田先生とやらが、この戦争に反対して立ち上がったのなら、悦んでその人の味方になるよ。内村鑑三御真影を拝むのを拒否して、不敬事件に問われたじゃないか。そんな気骨のある人はもういないんだろうか。教会が無力なように、無教会も無力じゃないか。それだったら神を信じるということは、日向ぼっこをしているのと同じことだ。そんな神なんか信じない方がいい。僕の孤独も無力かもしれないが、少なくとも神なんかに頼って、この神が日本を救えと命令したなんぞと考えるよりは、百倍も正直で人間らしいと思うのだ。神がいたら苦しまなくても済むかもしれないのに、神がいないからこそ、僕は人間らしく苦しむことが出来るのだ。愛することも、苦しむことも、神とは関係がないと思うよ。

 

福永武彦 『草の花』「第二の手紙」219-221頁、新潮文庫

 

-----

 

近頃は、車内でラジオを聞いているんですが、本の紹介番組で上の本が紹介され、気になって読んでみました。

主人公、汐見が愛に破れ、恋にも挫折するという孤独を描いたものだと思っていましたが、それもありつつ、生死観、宗教観など哲学的要素も含まれていて、とても興味深く読むことができました。

「孤独」というのも単に、友だちが少ないとか、恋人がいないとかというレベルではなくて、本当に他者のことを理解できるのか、分かり合えるのかを問い、人間的で魂からの孤独に立たされていた汐見。

「愛」「死」といった人間が生きていく上で必ず直面する問題について、考えさせられる本です。

そして、物語は太平洋戦争当時の日本。戦争に対する憤り、無力感を感じていた一人の青年。軍国主義に真っ向から反対し、当時の治安維持法で逮捕された先哲の存在を思い出します。

青春時代を生きる青年にとって切実な問題をこの物語を読みながら登場人物と共に考え、読み進めることができる「草の花」

面白い本でした。

いろいろ思うこともありますが、今日はこの辺で・・・。

 

さて、いよいよ明日は着任式、始業式、入学式。

3年生以上の子どもたちとは1年ぶりの再会です。

元気いっぱいの子どもたち。こちらも元気いっぱいに挨拶していこう。

 

 

草の花 (新潮文庫)

草の花 (新潮文庫)