「師を持っている」ということだけでいい

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内田 ・・・教師に必要なのは一つだけでいい。「師を持っている」ということだけでいい。その師は別に直接に教えを受けた人である必要はない。書物を通じて得た師とか、あるいは何年か前に死んだ人で、人づてに聞いてこんな立派な先生がいるというのを知ったというのだって、かまわない。「私淑する」というのは、どんなかたちでもできるんです。教育を再構築するというのは、この師弟関係の力動性、開放性を回復することから始めるしかない。「師弟の物語」にもう一度日本人全体が同意署名をすること。これはマインドセットの切り替えだけですから、コストはゼロなんです。

 私も基本的には師弟関係だと思っています。ビジネスでいい仕事をしたケースには師弟関係がたしかに多く見られるんです。優れたリーダーがいて、そのリーダーをみんなが尊敬して、求心力が生まれる。尊敬される師がいて、そこへみんなが集まって一つのチームになるというのが、日本的組織としてはたしかにいちばん効率が高い。先ほど、個性と自我についてのお話がありましたが、私も自我を殺すことの不快と共同ですることの喜びを比べれば、協働で行動することの喜びが大きいと思います。日本的な経営には今の学校教育、師弟関係についてのお話と相通じるものが多くあると思いました。

 

内田樹 『下流志向』「第四章 質疑応答」217-218頁、講談社文庫、2009年)

 

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教育者だけでなく、師の存在は、生きていく上で必要な存在だと思います。

尊敬できる人物は、学校の先生や、塾の講師、スポーツ界での監督やコーチ等・・・。あるいは、近所のおっさんかもしれません。

人生における師匠の存在は、とても有難く、人生哲学や生命哲学、つまりこの社会の中で生きていく上で、どうしても厄介となる人間関係や仕事、家庭の問題等々に対して、確固たる哲学を基に、羅針盤となる指標を与えてくれますし、あるいは、自身の主体的・能動的な行動でそれらの困難を乗り越えてくれるのを待ってくれている師の存在は惰性に流される凡人には有難い。決して、こちらが受身にならず、弟子の一人ひとりの成長を祈り、待ってくれている存在。

師に応える行動が、自分の成長に繋がりますし、それが、やがて社会の発展、結局は、身近な環境を変え、充実した生活を送れることになるので、ただ教えてもらうという受動的な態度は、弟子の在るべき姿ではないと思うのです。

師は、直接話したことがなくても、直接会ったことがなくても、「書物を通じて得た師とか、あるいは何年か前に死んだ人で、人づてに聞いてこんな立派な先生がいるというのを知ったというのだって、かまわない」

 

「師弟」は重要な視点ですね。

この本の中にも師弟関係についての内田氏の考えが述べられており、深く感銘を受けた次第でございます・・・。

 

 

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)