みんなが同じイデオロギーに乗って愉しく踊っていたら、気がついたら「そんなふう」になってしまいました

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「自分らしさ」は「商品購入行動」でしか表現できないというイデオロギーが支配的なものになったのは、八〇年代から後のことです。それまで消費単位は家族でした。家族が消費単位であると、消費活動はあまり活発ではありません。消費に先立って「家族内合意」が必要となるからです。仮に臨時収入があったとしても、父親は新車に買い換えたいと言い、母親は冷蔵庫を買えと言い、祖父母は墓を建てろと言うようなことが起きた場合、合意が成立しないと、消費活動は抑制されます。結果的に十分な所得がありながら、誰一人満足しない消費行動(みんなで回転寿司に行っておしまい、とか)が妥協点になる。これは家族全員にとって不愉快な結論であると同時に、マーケットにとっても不愉快な結論です。モノが売れないからです。

 それゆえ、マーケットはこの消費行動の最大の抑制要因である「家族内合意形成」というプロセスをこの世からなくす方法を考えました。簡単ですね。家族を解体すればよい。家族全員がそれぞれの「好み」に応じて商品購入行動を展開するならば、消費行動は急激に加速する。消費単位のサイズを小さくすればするほど消費活動は活発になる。これは論理的には自明のことです。

 そうやって、官民挙げての「自分らしく生きる」キャンペーンが以後二十年にわたって展開することになります。自分の好きな部屋を、自分の好きなインテリアで飾り、自分の好きな音楽をかけ、自分の好きな料理を、好きな食器で食べる。好きな時間に起き、好きな時間に寝て、好きなときに、好きな場所に、好きな友だちと(あるいは恋人と)旅行する。

 すばらしい。

 自分らしく生きるということは、要するに誰の同意も必要とせず商品選択を自己決定できることである、と。私が言っているんじゃありませんよ。中教審から『BRUTUS』まで、フェミニストから電通まで、全員がそう唱和したのです。

 うんざりする話ですが、ともかく、その全国民を巻き込んだ国策的な「自分らしく生きる」「個性的に生きる」キャンペーンの過程で、消費行動に際して同意が必要な他者との共生は「よくないこと」であるということについての国民的合意がいつのまにか成立しました。非婚化・晩婚化・少子化というのは、この合意に基づく論理的な帰結です。

(中略)

 そんなふうに「自分らしい消費生活」と「家族解体」のあともどりのないプロセスの中で、グローバル資本主義はたいへんに繁昌したのでした。私たちが現在直面している少子化とか非婚化とかはその「ツケ」です。それは別に主体的に選び取られた生き方でもないし、誰かに強制された生き方でもない。みんなが同じイデオロギーに乗って愉しく踊っていたら、気がついたら「そんなふう」になってしまいました、ということです。

 

内田樹 『街場の教育論』「第8講 「いじめ」の構造」199-202頁、ミシマ社、2008年)

 

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学校と「外の社会」の間にある壁の崩壊が、教育崩壊につながったと。。。八〇年代後半からの社会の波が、学校内へも広がった。それが良いかどうかは二の次として。二の次じゃだめだったんですけどね;

子どもたちを外から守る「壁」がなくてはならない。賛否両論あると思いますが、教育の第一義的な目的として、学校には「叡智の境位」が存在することを信じさせなければならない、とする内田氏の主張は示唆に富みます。

 

 

 

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街場の教育論

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