「切り札」の模様替えをはかろうとする議論に、安易に乗るのは、やはり「あぶない」こと

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 よく、「憲法は空気のようなものである」などと言われます。空気は生きていくうえで欠くことのできない重要なものですが、空気を吸ったり吐いたりすることが私たちの意識にのぼることは、あまりありません。しかし、空気が汚されたり、酸素濃度が低下したりすると、たちまちその存在を意識せざるをえなくなる。空気に対する無意識の状態が、私たちと空気の最も良い関係を表しているとも言えるでしょう。

 憲法も同じです。私たちの日々の生活そのものが、憲法を土台に営まれていますが、そのことにいちいち気を払ったりはしません。けれども、いったん社会が日常の営みからはずれ、危機的状況に至ったときには、憲法を強く意識しなければならなくなる。というのも、憲法は、私たち一人ひとりの生命や自由が脅かされることがないようにするために、存在しているからです。憲法がはっきりと姿を現してくるのは、故人の生命や自由が危機に陥ったときなのです。

 さて、近年の日本社会では、憲法のあり方がさかんに議論の俎上にのぼります。二〇〇〇年一月には、憲法改正をにらんで、憲法調査会が衆議院と参議院に設置されました。また、二〇〇一年九月一一日にアメリカで発生した同時多発テロ事件への日本の対応として、テロ対策特別立法がわずか三週間ほど審議されただけで成立し、憲法との齟齬が指摘されています。

 このように憲法が議論されているのは、社会が大きな変革期に入ろうとしている兆候なのかもしれません。しかし、今、日本が憲法改正を本当に必要とするような変動の時代にあるのか、慎重に見極めなければなりません。これを口実にして、私たちの自由を制限する企てが、隠されているおそれがあるからです。憲法は、私たちの自由を守る「切り札」としてこそ、その真価を発揮するものです。「切り札」の模様替えをはかろうとする議論に、安易に乗るのは、やはり「あぶない」ことです。

 いまの憲法には、これまで人間がさまざまな経験をして学びとってきた、政治のルールについての貴重な知恵がつまっています。それは「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、「過去幾多の試練に堪へ」(憲法九七条)てきたものなのです。そうした知恵を踏まえることが、憲法のあり方を議論するときの大前提です。

 

 

(渋谷秀樹  『憲法への招待』「はじめに」ⅰ-ⅲ頁、岩波新書、2001年)

 

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憲法改正が問題視されている状況ですし、

来週、大学のスクーリングで「憲法」という科目を受講してきますし、

BOOKOFFで105円だったし。。。w

 

 

憲法への招待 (岩波新書)

憲法への招待 (岩波新書)