人間を理性だけと考えることが危険なのである。

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 もともと特別なのだら文化的動物に鍛え上げる必要はなく、ただ知識を学んで「知」的に上昇していけばいい。勉強することは人間の本質(本性)であり、自然に内から溢れ出てくる力なのである。だから、何もひとは変革されなくてともただ「知識を学ぶ」ことで「知」は達成され、人格は完成するのであろう。このように人間を普遍として捉えれば、ほかの動植物や地球という環境は、人間が生きるための手段と見なされる。このような人間中心主義は外部や他者性を欠いた思考で、理性や精神の優位性を信じて、人間性の中に閉じてしまっている。そういう考えは宇宙的な見方をすれば、社会のなかで近代的自己ではない「自分」に閉じ籠もっている近頃の子ども・若者たちと同じなのである。

 逆に、学校や勉強の目的が「人間として成長するため」と考える人たちは、勉強がひとをひとにする、あるいは、ひとがひとになる必死の営みであることをどこかで承知していることになる。ひと(人類)は、文化的な存在であると同時に、依然として自然的な存在なのである。「知識を学ぶ」派がひとは文化的・理性的・精神的な存在であると一義的に決めてしまっているのに対し、「人間として成長」派は、ひとはなお文化と自然とのあいだに引き裂かれている両義的な存在であり、これからもそうあり続けるであろうことをどこかで知っている。「知識を学ぶ」派は、人間の理性(精神)を(「神」から与えられた)特権的なものと見ており、「人間として成長」派は、そういう人間の特権視は、人間にとっても、自然や人間以外の他者にとっても、危険なものであることを知っている。人間を理性だけと考えることが危険なのである。

 

(諏訪哲二 『なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える』「第3章 学校論① それでも学校を信じなければならない訳」77-78頁、光文社新書、2007年)

 

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何のために勉強をするのか、と聞かれたときに、「知識を学ぶため」と答える人と、「人間として成長するため」と答える人に大きく分かれるそうです。

どちらも間違いではないと思うけど、両者には大きな違いがあると。

「知識を学ぶため」は、すでに自己があり、その自己が知識や情報を選んで身につけるという姿勢に対し、「人間として成長するため」は、これから自己が変革されることを予感しているのだと。

 

生命誕生の歴史から視れば、ひとが類人猿から分岐して、さらに、「知」の発生は、約2500年くらいであり、ほんの数分程度の歴史しかない。

だから「ひとに、もともと学びへの意欲が内在している」と断定はできないと、諏訪氏は述べています。

そこで、ユダヤ・キリスト教の西欧思想が、常識的に流布されてきたのだと。

「ひとが、もともと学びへの意欲が内在している」のは、「神」が「そのように創り給うた」場合にのみ成立するのだと。

 

 

ps,

どんな分野であれ、「歴史」から見てみると、いろんなことが見えてきますね。

 

 

なぜ勉強させるのか?  教育再生を根本から考える 光文社新書

なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書