人の心が分かる心を教養という
-----
人間科学の講義で、今年は最初に、個性だの自分だのと、若い未熟な人間がバカなことを考えるなと、はなはだ乱暴なことを語った。それより自分の友だち、親兄弟の気持ちがよく理解できるほうが、よほど人生が豊かになるのではないか、と。私は他人の気持ちがよく理解できるほうではない。若いときからそう思ってきた。だからますますそう思う。これで他人の気持ちがもっと理解できていたら、はるかに偉くなっていたかもしれない。
四月のはじめに、八十歳を越えられた恩師を囲む会があった。そこで恩師の口癖ともいえる、人の心が分かる心を教養という、という言葉にあらためて出合った。いつの頃から、その言葉が私自身の口癖にもなりつつある。それでどこが悪いといいたい。イスラエルの人にアラブの人の心がわかるか。その逆は可能か。
教養はものを識ることとは関係がない。やっぱり人の心がわかる心というしかないのである。それがいわば日本風の教養の定義なのであろう。自分だけの考え、自分だけの理屈、自分だけの感情、そんなものがあったところで、他人に理解され、共感されなければ、まったく意味を持たない。そういう徹底的に「個性的」な心を持つ人は、精神科の病室に入っている。それなら個性とは、いったいなにものか。個性を伸ばすとは、どういうことか。だれも他人と自分を間違えはすまい。自分の皮膚を、親にすら提供することはできない。免疫を抑制しなければ、拒絶されるからである。それなら個性は身体にまかせればいい。心こそ人類が共有するものなのである。
(養老孟司 『まともな人』「多頭の怪物の心がわかるか」129-130頁、中公新書、2003年)
-----
夏休みで、子どもたちと接する機会がない今日この頃、試験対策以外の時間は、読書したり、買い物したり、遊んだりしています。
知識だけを教えるのが学校教育ではないので、勉強だけでは、どこかで行き詰ってしまいます。専門教育の下には、一般教養があるはずで、まず自身が「教養ある人」になりたい。
目の前の一人の人の心をわかろうとしないで、どうして教壇に立てようか。
もちろん知識も大切ですよ。
それにしても、世間でいう「教養」ってモロに知識じゃんかよ・・・。「教養」がマークシート試験で測れるのかよェ・・・orz
- 作者: 養老孟司
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2003/10
- メディア: 新書
- クリック: 10回
- この商品を含むブログ (38件) を見る