いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない
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藤樹の教えのなかで、とくに変わった教えが一つあります。藤樹は、弟子の徳と人格とを非常に重んじ、学問と知識とをいちじるしく軽んじました。真の学者とはどういう人か、藤樹の考えはこうです。
“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも得を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。
(内村鑑三、鈴木範久訳『代表的日本人』「4 中江藤樹」122-123頁、岩波文庫)
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“知識”が重要なのではなく、“知恵”が重要である。この考えに触れるたびに、思い起こすのは、原水爆禁止宣言。
「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔物であり、サタンであり、怪物であります。それをこの人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります」
先哲の獅子吼を日本の青年は忘れてはならない。
また、ナチス政権によるホロコースト。高い知識をもつ計画者でないと、とてもあのような大量虐殺はできない。当の本人は、一見普通の人。まったく極悪人のような形相をしておりませんでした。おそらく学業優秀だったのでしょう。しかし、正邪の判断がつかず、ナチスの言いなりになっていたようです。
科学時術の発展により、生活は豊かになりましたが、それを利用する私たち人間の“知恵”によって、良くも悪くもなるのです。
戦争の形も技術革新により変わってきていますし、環境破壊の問題も然り。
便利、便利だけでは、「本当の幸せ」は遠のいていく。
安全、安全と言われても、よくよく用心あるべし。
知識をどのように活用するのか。
「何のため」の知識か。
“知恵”を湧き出せ。
「いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない」
さて、その“徳”とは・・・。