日本ではいつの間にか「錦の袈裟」という言葉が作られて、袈裟が権威の象徴になってしまった
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日本では、随所に仏教の権威主義化が見られる。例えば「錦の袈裟」という言葉がある。これは、形容矛盾である。「袈裟」というのは、サンスクリット語のカシャーヤを音写したもので、「薄汚れた色」という意味である。なぜ薄汚れているかというと、死体が棄てられる場所で拾ってきた布きれだからだ。それは、もと死体をくるんでいた布なのだ。インドでは死体を火葬にするのはまれで、川に流したり、林の中に置き去りにする。遺体は、たいがい白い布で覆われている。そこで、ライオンやトラや蛇が来て、死体を食いちぎる。布は、血や膿で汚れる。そこで、汚い色になっているわけだ。
当初の出家者たちは、それを拾い、洗って縫い合わせて着た。それが、出家者のカシャーヤ(袈裟)だったのだ。もともとインドでは、アウト・カーストと言われ、カースト制度の最下層に位置づけられるチャンダーラ(旃陀羅)と言われる人たちが身にまとっていたものだった。出家をするということは、権威や名声の一切をかなぐり棄てて、チャンダーラと呼ばれる人たちと同じ立場に立つということを意味していた。日蓮が自らのことを「旃陀羅が子なり」と言っていたのは、この理にかなっていたわけだ。ところが、日本ではいつの間にか「錦の袈裟」という言葉が作られて、袈裟が権威の象徴になってしまった。
あるいは、出家者が手に持つ払子も同じである。これは、インドでは、虫を殺さないようにそっと払うための、柔らかい毛でできた刷毛のような道具だったのだ。ところが、日本では払子を持つことが、一つの権威を象徴するものになったのだから、面白いことである。これも日本の仏教の特徴だと思う。
(植木雅俊 『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』「第四章 日中印の比較文化」198-199頁、中公新書)
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先日、中学時代からお世話になっている先生のご家族と、京都へ旅行に行ってきました。
紅葉は終わっていましたが、清水寺周辺・祇園周辺を堪能しました。京都らしい雰囲気と美味しい店がたくさんあり、2日間では回り切れないほどでした。なかなかオシャレでした。
先生の娘さん、息子さんも楽しんでいたようで(?)良かったです。息子さんは、大半の時間をケータイゲームをしていたんではないでしょうかw 京都の古い街並みにはあまり興味なかったようです。
宿泊したところも、なかなか味のあるところでした。「懐古庵」というところです。
部屋の中は撮りませんでしたが、まあ、実家のおばあちゃん家のようなもので・・・。
帰りは、コストコに寄って帰宅。
家族旅行に同行させていただき、感謝です。
明日は、大阪。バスケ部の遠征に同行です。
京都は、当然、神社仏閣が多いわけです。まあ、観光地として機能しているんだろうと思います。古い街並みと美味しい料理を堪能できる良い場所ですね。
地元から近いですし、機会があればまた行きたいですね。
仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 (中公新書)
- 作者: 植木雅俊
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
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