一定の知識を子どもたちにつめこみ、その結果が、子どものすべてであるとする世界は、人の関係を固定化する。
-----
園田さんの教育のいわば象徴としてあるこの二つの実践は、こんにちの教育の中にある人間疎外と、まったく逆の位置にある。
園田さんの実践記録に触れて、わたしはそれを次のように定義した。
「教育の目的は子どもの自立を助けることである。その自明のことを、こんにちの教師ほど逸脱しているものはない。
一定の知識を子どもたちにつめこみ、その結果が、子どものすべてであるとする世界は、人の関係を固定化する。
そこでは教師も人間であるという当然のことが忘れさられ、教師は子どもたちの前に君臨し、管理の教育はいっそう強化されていく。
人間の社会でありながら、人のいとおしさとか、共に学び合うことの楽しさは毛頭なく、競争という非情さだけが支配する。
子どもたちに与えられた最初の組織的な自立の場がそのようなものだとすれば、そして子どもたちがそれに対して異議申し立てや批判することを許されないとすれば(じっさいは非行とか登校拒否という形で子どもたちの反乱はおこっているのだけれど)、子どもたちにとって教育の場というものは、地獄に等しいものでそこはもう早くくぐり抜けたいだけのなんの希望もない場所になる。
ざんねんながら学校というものをそういうふうに見ている、あるいは感じている子はなんと多いことか。
園田さんの教育は一言でいえば、そういう教育に対するアンチテーゼである。
自立を果たすのは子どもたち自身であり、教師はそれを助けるという関係を園田さんはかたくなに守ろうとする。
そしてそれは園田さんの思想とか、さし当たっての教育観からそうするのではなく、いわば園田さんの人間観から、そうせざるを得ないという必然が、その教育を強いものにしている」
(灰谷健次郎『優しさとしての教育』「Ⅰ 優しさとしての教育」63-64頁、新潮文庫)
-----
教育観はもとより、人間観を磨いていこう。