「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。

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 教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。

「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。

 前にラカンを引いたときに、教師が教師として機能するのは教壇に立っているからだと申し上げました。「人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている。教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してない」。ラカンはそう言っていました。「教壇に立つ」というのは、そのこと自体が「私は教育の有効性を信じている」と信仰告白することです。

 私もまたかつて教壇の「そちら側」に座っていて、師の言葉を書きとっていた。今、私は教壇の「こちら側」に立っていて、私の言葉を書き取らせている。そういう立場になることになったのは、私がこの「教壇をはさんで成立する関係」を信じたからである。その関係を信じるものは、いずれこの教壇の「こちら側」に立つことができる。教師は教壇に立っているだけですでに無言のうちにこれだけのことを述べているわけです。何も言わなくても、何をしなくても、「私は教壇をはさんで行われる知の運動を信じる」という信仰告白を、教師は教壇のこちら側に立つことによってすでになし終えているのです。

 それを言い換えると、「私もかつては師の弟子であった」と告げるということです。教壇をはさんで行われる知の運動を信じるというのはそういうことです。「私には師がいた」というのが、教師が告げるべき最初の言葉であり、最後の言葉なのです。

 ですから、学びの場というのは本質的に三項関係なのです。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。さきほどの発表者が「教育におけるインプリケーションのためのシステムの構築」のことです。そして、この「(その場にいない)師の師」こそが、学びを賦活する鍵なのです。

 

内田樹 『街場の教育論』「第7講 踊れ、踊り続けよ」142-143頁、ミシマ社)

 

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「人生における」師がいることの幸せ。

師弟関係は、人間の世界にしかない。動物の世界では、「親子関係」はあるが「師弟」はない。「親分関係」はありますが・・・。師の激励と弟子の応戦は、人間にしかできない崇高な関係だと思います。

また、師は弟子としての模範を示してくれます。かつて師匠にも、その師匠がいたのですから。

ボクも弟子として、今の立場でできることを精一杯することです。あまりにも偉大な人生の使命を自覚することは難しいですが、今いる場所、地域で責任と使命を果たしていきたい。

 

師は弟子の勝利を待っている。

 

 

ps,

気がつけば、7月。

残り2週間。どのように夏休みを迎えようか。しっかりと学びの質を高めて夏休みに突入したい。

そして、試験・・・;

5度目の挑戦となります。

学び続けろということでしょうか; しかし、参考書とはオサラバしたい!!

 

 

街場の教育論

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