人間の寸法

 

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橋を見て、思いのほかきれいなもんやなぁと、クルーのひとりが言いました。

そんな人工美がないとはいえないけれど、私はそんなことより、地球から生えてきたものと、どんなに計算され強度を持ったものであっても人が作って地球の上に置いたものとの差を考えていました。

 

 橋はこんにちの建築学から見て傑作かも知れない。人は知識にたよって、この建造物に身をまかせているけれど、緑の山を見て眠る赤ん坊なら、足に目を見張っても、心安らかに目をつむる事はあるまいと、わたしには思えたのです。

じっさい、わたしには橋の上の車が、今にもぽろぽろ落ちてくるように思えた。
水上さんが人間の月着陸を、実際に月を見ていたものには見えなかったと、おかしくも語っておられたが、何かそれに似たおかしさと頼りなさを、私はその橋を見て感じました。
そして、30数年前の進水式の情景がありありとわたしに甦ってくる。
ついに最後まで読まれることのなかった『シートン動物記』の持ち主の死を、私は思い起こす。
瀬戸大橋の犠牲者十七名です。
連休に瀬戸大橋を見ようと押しかけた人は善良な市民と呼ばれる人たちでしょう。善良かどうかは知らないが、わたしもそのうちのひとりです。
「……生まれてくる人はみな、たった三尺の足はばの人生を生きるしかないのです。しかしながらたいがいの人間は、足はば三尺の歩行に満足できず、海に橋を架け、本土から四国へ車や飛行機を使ってゆきたがり、いや、もっととてつもないものを使って月にまで出かけたいようです。その裏で、人が苦しんだり悲しんだりしているのないがしろにしようとも」
水上さんのこの言葉は何百遍唱えても、唱え過ぎということには至るまいと、私は思います。
橋の入り口にあたる下津井節で有名な下津井のまちは、昔の面影が随所に残るいいところです。
さっそくに、という表現は穏当ではありませんが、橋ができ、あまりの騒音に耐えかね、下津井の人が座り込みをはじめたというニュースがテレビに流れました。辛いことです。
三尺の歩行を飛び越えたならば、いくら善良な市民であっても、瀬戸大橋の犠牲者十七名のいのちは目に映らないでありましょう。三尺足らずの寸法のうちに生きる多くのいのちのたった一つも目に映らないでありましょう。
人はそうして、こまやかさと優しさを失っていくのでしょうか。
 
水上勉灰谷健次郎『いのちの小さな声を聴け』「海と船と少女(灰谷健次郎)」52-54頁、新潮文庫
 
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いのちの小さな声を聴け (新潮文庫)

いのちの小さな声を聴け (新潮文庫)