純粋な理性というのは、肉体のかけらも含まない

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 合理的選択モデルは、その枠組みが使える場面では有効性を発揮するかもしれない。ヘッジファンドの手口などでは、うまくいくケースもありそうだ。しかし、そういう場面はきわめて限られている。使われる舞台が、人間の感情をほぼ完全に除去した数値計算の通用する場面で構成されているなら、可能だろう。合理性というものを、西欧の伝統的哲学の主柱たる理性の所作だとするなら。そこでは、理性は感情から独立したエージェントで、肉体的欲望などとは切り離されている。純粋な理性というのは、肉体のかけらも含まないものであろう。
 合理的選択理論もこの伝統に忠実な弟子である。数学という一見価値中立的で「純粋」な方法を使うから、ますます合理的な顔つきになる。しかし、残念ながら、ご同慶の至りかは別にして、人間のやることなすことは、この理論が前提とするような合理性を持たない。人間は合理的には推論していない。日々の暮らしの中で、確率論の法則と合理的モデルに従っては思考しない。それよりももっと豊富な思考、つまりは情緒・感情を喪失しない思考をしているという研究も紹介されているが、本稿では詳述できない。
 戦争をゲインとロス、要するに貸借対照表計算で遂行した。数値しか見なければ、クールにもなれる。血みどろ泥まみれの戦争なんか考える必要はない。戦争の方法も上空から衛星で監視し精密誘導爆弾で遠方から爆撃、生身の肉体が飛び散り、女子どもが焼き殺される図など、見なくてすむ。
 大脳皮質前頭前野が戦争を遂行する、純粋化され血と脂を抜いた目黒のサンマみたいなデータを駆使して。
 清潔で理念的な戦争!
 まさにラムズフェルド氏の綺麗な戦争にうってつけでわないか。


(計見一雄 『戦争する脳 破局への病理』「第二章 ラムズフェルド氏の見事な戦争」109-110頁、平凡社新書、2007年)

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いつかのブログにもかきましたが、
ピストルを隣の相手の頭に向けて、引き金を引くとき、目をつぶるのは、打つ人か打たれる人か。

殺す人が目を閉じる。殺される人が最後まで目を見開いているそうです。

人を殺すということはよっぽどのことなので、なるべく相手と顔を合せないように、様々な武器が開発されてきた。

人間を数値化して、“生きた一人の人間”という認識を持たずに戦争は行われる。

それこそ、テレビゲームの感覚。日本は戦争しないと決めた国だけども、“戦争”を起こす可能性はボクらの身の回りに潜んでいると思います。
国同士の争いだけが戦争ではないと。

“生きた一人の人間”と対峙している感覚がなく、あたかも機械を相手にしているかのように。
そこに、相手の“顔”はない。

メールやSNSなどのコミュニケーションでは、相手と対峙することなく、やり取りができますね。
リアルに知っている人ならまだしも、名無しが名無しをバッシングしている様子が見られます。Twitterとかね。
知りもしない相手を批判し、「オレが正しいんだ」という態度は、国同士での戦争と同じ仕組みなのでは・・・。

学校でのいじめも一種の戦争かと。

どこまでも“対話”を繰り広げ、一人ひとりの命に内在する“戦争の心”と戦っていかなければなりません。


夏休みといっても、先生は仕事です。
子ども達は学校にいないですが、9月からの授業案を考える際も、相手は生きた人間だという認識を持って、授業に臨まなければいけませんね。
ややもすると、略案をどんどん書いて、これなら6コマで終わって、次にこうして、あーして・・・。と超スムーズな展開を想像し、「お、これならいけそうじゃん!」と痛い目を見る前の愚者と何ら変わりない姿になっているかもしれません;
自分の都合だけで展開できるはずもなく、そこに子ども達の存在を忘れてはいけません。

4月〜7月の学校生活の様子をもう一度、振り返ってみると、スムーズに行くはずがありません(キッパリ)

臨機応変。


さて今日は、午後から研修講座です。
学びまくって、9月を迎えたいですね。


戦争する脳―破局への病理 (平凡社新書)

戦争する脳―破局への病理 (平凡社新書)