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子どもを教えるには、手をかけてやると同時に、目をかけてやらねばならぬ

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 近年、赤ん坊の保育にスキンシップの重要性が強調されているのはゆえなきことではない。お乳を飲ますときの肌のふれあい、だっこしたり、おんぶしたりするときの皮膚の圧迫によって、赤ん坊の心は母親のなかにとけこみ、安らいだ心で育ってゆくのである。
 共稼ぎの団地の赤ん坊に指しゃぶりが多いという。性欲がみたされていないときの自慰行為と同じ代償行為である。職業をもった母親が、赤ん坊を保育所や施設へ預けっぱなしにしていると、スキンシップが不足がちになり、いわゆるホスピタリズムによる精神異常がおこってくる。無表情、無気力、逃避的になり、ことばの理解力は身につくが、ことばを話す表現力がわるくなる。性格も攻撃的、逆上的になり、行動も無統制になる。いちどこのような異常な性格が身につくと、なかなかかわらないという。母親の愛情ということばをよく使うが、肌を通した保育をいうのであろう。
 赤ん坊をしつけるにしても、子どもを教育するにしても、しつける親としつけられる赤ん坊の間で、教えられる子どもと教える教師との間で、心の連帯がなければ、その効果は期待できない。話してもわからない小学校の低学年の子どもたちに、手をかけているゆえんである。精神薄弱児の教育は、抱きあい、頬ずりしながらの教育であるというし、重症の小児自閉症の子どもも、つぶれるほど抱きしめてやると、こちらに顔を向けてくるという。手をとって教え、手塩にかけて鍛えるというのは、ことばのあやではない。
 冷酷さを感じさせる機械文明の現代社会に生活する私たちは、お互いに個を主張するきびしい対人関係によって、とかく疎遠になりがちな心と心を結びつける配慮が必要である。この場合、理屈ぬきで心の連帯を作ってくれる肌のふれあいを活用したいものである。その点では、握手、頬ずり、接吻といった西洋流の直接法の方が、東洋流の関節法よりも、より効果的だといえよう。しかし、私たち東洋人は、肌のまわりに心の雰囲気をただよわせているために、直接法でなくても、十分に効果をあげているようだ。「袖ふれあうも他生の縁」であって、培われた風土の違いによる精神構造の違いであろうか。
 イヌやネコやサルなどの行動をみてもわかるように、動物もスキンシップによって集団欲をみたしている。ダイコクネズミの隔離実験(11章参照)で、一日に五−一〇秒間、隔離してあるネズミの皮膚にさわってやると、隔離の影響の現われ方がずっと弱くなる。サルを群れからだして一匹にして飼っていると、精神的に不安定になるうえに、自分の身体の毛をどんどん抜いてゆくという。毛づくろいで対話する相手がいないので、われとわが身の毛づくろいで、代償的に集団欲をみたしているのである。
 動物を訓練する場合には、餌を報酬にした条件反射の手法でやっているが、その前提に、訓練する人と訓練される動物との間に、心の交流が必要である。それには、肌のふれあいよりほかに手はない。神経質で獰猛なゴリラの子三頭を、六年間訓練して、世界ではじめていろいろな芸当をさせることに成功した名古屋の東山動物園の飼育係の浅井力三さんが、はっきり語っていた。「自分とゴリラとの共通のことばは肌のふれあいである」と。あれほど賢いイルカも、スキンシップがなければ、なかなか芸当を覚えてくれないということである。
 訓練に限ったことはない。飼っているイヌやネコに愛情をふりまくには、抱いたり、なでたりのスキンシップよりほかに手はないし、動物もまた、私たちに身体をこすりつけたり、噛みついてみたりして、愛情を示してくる。
 オオカミ少女をひきとって、人間の再教育をはじめたシング夫人が、少女の腕や脚などがよく動くようにする目的で、毎日マッサージをしたのであるが、実は、このマッサージは、少女の筋肉を柔らかにするよりも、少女の警戒心や恐怖心をほぐす効果の方がおおきかったのである。これによって、シング夫人に愛情を示し、夫人を信頼するようになったということである。
 大脳辺縁系の集団欲をみたす相手は、非特定のだれであってもよい。ふれあう肌は、だれの肌でもよい。いうなれば、没人格的に心の同体化、心の連帯をはかろうとしているのである。
 これに対して、新皮質系から由来する孤独感は、没人格的な肌のふれあいではいやすことができない。相手を人格者として認めながら、対決する個と個との間で、お互いをつなぐ心の糸を模索しているのである。この行為を愛ということばで表現できるのではなかろうか。
 このように考えると、愛の行為は、相手を所有し、包容することではなく、お互いの心の間に火花が飛びかよっているのである。その行為は、肌のふれあいではなく、個を託することができることばや文字、あるいは、それよりももっと高次の手段によってはじめて達成されるのである。ことばや文字よりもより高次な手段はなにであろうか。それは、「目は口ほどにものをいい」という文句や、「神は両目に在り、情は笑容に在り」という文句が端的にいっている目、すなわち視線、まなざしではなかろうか。
 行きずりの人と視線があっても、さして心に動揺はおこらないが、恋人や論敵や親友など、人格ある相手として認めているものとの目と目との出会いは、離・合・集・散の心の火花を飛びかよわせる。一日のうちで、本当に目と目をあわす相手が何人いるだろうか。そしてまた、お互いにどれくらいの時間、視線をあわせているだろうか。
 きびしいことではあるが、お互いに、目をそむけないで、目と目による、人格者としての心の連帯を作りたいものである。このきびしさは、肌のふれあいによる無人格的な心の同体化によって支えられるのである。相手の瞳をくいいるようにみながら愛をささやく恋人同士も、しずかにまぶたを閉じた接吻を忘れてはいない。子どもを教えるには、手をかけてやると同時に、目をかけてやらねばならぬという。尊い体験からにじみでた真の教育者のことばである。


(時実利彦『人間であること』「12 肌をふれあうこと」76-80頁、岩波新書

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人間であること (岩波新書)

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