われわれは他人に迷惑をかけなければ、何もできない

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わが子が世間的に成功している場合―――とくに親のあとを継いで立派な学者や役者や政治家になった場合―――親たちはほとんど人間としてのまともな感覚を失った道徳的エゴイストに変身する。そして、例えば「何でもしてよい。だが他人に迷惑だけはかけるな、と言っております」とか「いくら女遊びをしてもよい。だが相手を悲しませるな、と言っております」とか「何も言いませんが、嘘をついたときだけは殴ります」とかいうような恐ろしいことを真顔で言い出すのである。

 ちょっと考えてみれば、こうした教訓がいかに馬鹿げたものかがわかろう。われわれは他人に迷惑をかけなければ、何もできないのである。ナポレオンや秀吉が他人に絶大な迷惑をかけたことは当然として、ソクラテスも利休も他人に迷惑をかけた。二人とも家族のことを思えば、あんな無茶なことはしないはずである。われわれは他人を悲しませないでは生きてはいけない。われわれはさまざまな点で他人を意図的にまた意図せずに悲しませるのである。ソクラテスや利休の処刑を妻や子供たちが悲しまなかった、とでもいうのだろうか。また、われわれは嘘をつかずには一日たりとも生きていけない。他人に迷惑をかけまいとして嘘をつき、他人を悲しませまいとして嘘をつく……。

 

 

中島義道 『カントの人間学』「第1章 エゴイズムについて」55頁、講談社現代新書、1997年)

 

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初めて教員採用試験を受けてた時から、結果がどうであれ全力を出した結果であり、無駄なことはなくすべてに意味があると捉え、プラス思考で「次」に向かっていこうというスタンスは変わりません。

が、お世話になった方々には合格の報告はしたい。申し訳ないという気持ちはどうしても出てくるもの。

「今年こそは!」「合格の報告を!」というプレッシャーは、試験に臨む上で、どう作用するのか。難しいところ。

 

校長先生からは、「試験は自分自身の問題」であることを気づかせていただきました。ここで、誰のために試験を受けているのかを考えることができました。たしかに「あの人のために」という強い気持ちは、向上心に繋がると思いますし、「報恩」は自身を成長させる最も強い糧となると思いますし、人間として尊い行動だと考えます。その上で、「何のため」に受験しているのかを再確認することができました。

もし、残念な結果であれ、次に向けて気持ちを切り替えてプラス思考に捉えることができる。これは自分の問題ですから。その上で、お世話になった人、応援してくれた人に対しては、「またお世話になったらいいよ」ということを校長先生は言ってくださいました。

あぁ、有難い。。。

 

落ちても落ちても、先を見て、一喜一憂しない。ある種の「開き直り」も必要だと。1次試験は通過点と捉えること。明日から現場で子どもたち、保護者と相対するという覚悟。「継続」して問題解決を図ること。いろんなことを頭に置きながら、複眼的に思考し、志向していきたい。

 

 

ps,

今日から2次試験の実技試験であるピアノの練習を開始しました。昨年もお世話になったピアノの先生に個人レッスンを。ホント有難いです。

今年の課題曲も実際に弾いてみると、とても難しい・・・;途中、心が折れそうになりましたが、まだ初日。

これからです。

 

 

カントの人間学 (講談社現代新書)

カントの人間学 (講談社現代新書)