クビを吊ったら枝が折れて落ちて身体を打った。死ぬかと思った
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環境問題にしたって、「どうせ大噴火が起きれば環境もクソもない」とか「隕石が降ってくれば恐竜みたいに人間だって滅びるさ」と考えて何もしない、というニヒリズムに走るのは簡単です。しかし、これは非常に乱暴かつ安易な結論です。
病気の苦しみには何か意味があるのか。医師のなかには、そんなものには何の意味も無いとして、取り去ることを至上のこととする人もいるでしょう。しかし、実際にはその苦痛にも何か意味がある、と考えるべきなのです。苦痛を悪だと考えてはいけない。そうでないと、患者は苦痛で苦しいうえに、その状態に意味が無いことになって、二重の苦しみを味わうことになる。
「苦痛には意味がある」というのは宗教的な考え方で、場合によってはいわれの無い社会的な差別のようなものまでを必然としてしまう危険な面もあります。それでもやはり、たとえ苦痛にでもプラスの面もある、という多面的な考え方は必要なのです。
年々、自殺者が増えているということは、直接的には不況などが原因になっているとはいえ、突き詰めれば人生に意味を見出せない人が増えている、ということに他なりません。
傑作だったのは、『からくり民主主義』(高橋秀実著・草思社)のなかで紹介されている、樹海での自殺者の話。地元の人が樹海を捜索していると、自殺しそこねた人が現れて「クビを吊ったら枝が折れて落ちて身体を打った。死ぬかと思った」と言ったといいます。これは笑い話ですが、この自殺者も、首を吊りそこねてお尻を打ったことで別の世界が見えてきたに違いありません。
意味を見出せない閉塞感が、自殺を始めとした様々な問題の原因となっています。かつて脚本家の山田太一さんと対談した際、彼は「日本のサラリーマンの大半が天変地異を期待している」と言っていました。もはや自分の力だけでは閉塞感から脱することが出来ない、という無意識の表れでしょう。実際には意味について考えつづけること自体が大切な作業なのです。フランクルの言葉を借りれば、人生が常に私たちにそれを問うているのです。
共同体について考える、というと、どうしても顔の無い人間の集合体のようなものを想定してしまいがちです。しかし、事は直接私たちそれぞれの幸福なり「人生の意味」なりにかかわっているのです。
(養老孟司 『バカの壁』「第五章 無意味・身体・共同体」113-115頁、新潮社)
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先日、音楽について書きましたが、僕が尊敬するアーティストとは、Def Techのお二人。就中、「Micro」こと西宮佑騎さんです。
音楽に興味がなかった僕がDef Techを出発点として音楽を聴くようになり、そこから生きる希望も、自分を変えていく力にもなっていきました。
Def Techが作り出す歌詞ももちろんですが、Microの生き方、人間性に共感し、勇気をもらったという感じです。
最近も『Def Tech BEST MIX』を車内で聴いています。
さて、Def Techの他にも気になっているアーティストがいます。
それが、amazarashi。
は、誰?
でしょうねw
うまく言えませんが、世の中の不条理とか、絶望感を歌っているんですが、その中で希望を見出している世界観があります。
歌詞に注目するのは当然ですが、ギターやドラムのリズムも心地良いです。
たしか初めて聴いた曲は『つじつま合わせに生まれた僕ら』でした。独特の世界観に圧倒された記憶があります。
僕の数少ないお気に入りアーティストの中の一人です。
ps,
誰しも、走れば息が切れるように、生きていく上で必ず苦しみや困難は避けては通れない。
ただ、その苦しみや困難に意味を見出せるかどうかの違いだけ。
そして、その意味の中身も重要であると思います。人生の目的は「幸せ」を掴み取ることにあるわけですから、その幸せとは何ぞやという問いかけもしつつ、苦しみや困難を価値的に捉えたい。所謂、価値創造。
何のために苦しんでいるのか、何のために生まれてきたのか・・・。このところを明確にしないと、やっぱり人生に意味が無いとして無力感に浸ってしまうのでしょうね。
「苦しみの意味」「人生の意味」については、難しい問題なので、また後日。
amazarashi "つじつま合わせに生まれた僕等 (We were born because ...
学者になってはならぬ、人は実行が第一である
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少年期というのは感受性が鋭く、つねに何が「本物」で、何が「偽物」なのかを真剣に知りたがっている。それだけに、純粋な嗅覚を持っています。だから机上の空論をもてあそんんだところで、すぐに「偽物」は見抜かれてしまう。
松陰の外見は貧相でした。がりがりに痩せていたし、見るからに腕っぷしも強そうではない。しかもあまり風呂に入らぬから、近づくと臭い。ともかく、外見に頓着する人ではなかったことは確かです。
しかし、少年たちは、そんな松陰を軽んじることは、決してありませんでした。
それは少年たちの目に、なによりも松陰が魅力的な、「本物」の「英雄」として映っていたからだと思います。
松陰は学問の心得として、
「学者になってはならぬ、人は実行が第一である」
と、つねに塾生に説いていました。そして自らも、この教えを実践してきたのです。
脱藩して東北を遊歴したり、アメリカ密航を企てたりといった一見、血気にはやったような危険な行動も、若い門人たちからすると、血湧き肉躍る「冒険譚」や「武勇伝」でしょう。現代で言うなら、パスポートを携帯せずに世界じゅうを飛び回ったとか、宇宙からやってきたUFOに乗り込もうとしたとか、そういった話に匹敵するものだと思います。
萩以外の世界を知らない塾生の多くは、松陰の話を「窓」にして、そこから外の世界を見ようとしました。
塾生の横山幾太は当時、松陰の名は萩では子どもや夫人に至るまで、知らない者はなかったと述べています。その横山もまた、松陰を一目見ようという好奇心をもって出かけ、入門してしまうのです。塾生にすれば、数々の凄い体験を重ねている「本物」の「英雄」が、松陰なのです。
しかも、そこには一片の私心も無い。松陰はただひたすら日本の将来を案じ、我が身の危険を承知で行動していたのですから、それを知った少年たちの魂は、激しく揺さぶられたに違いありません。
そして師の背中を見た塾生たちは、今度は、
「自分たちが、なんとかしなければ!」
との気持ちを高めてゆくのです。
松陰は塾生たちを単に、理屈で「教化」したのではありません。自分の姿を見せて、「感化」してしまったのです。だから、強い。
(一坂太郎 『時代を拓いた師弟 吉田松陰の志』「第五章 松下村塾を主宰」137-139頁、第三文明社)
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2015年、明けましておめでとうございます。
本年も、例年以上にたくさん悩み、もがきながら成長し、大きく躍進しゆく年として参りたい。
どうぞ、よろしくお願いします。
仕事が自分の活動だけで自己完結しないということ
一定の知識を子どもたちにつめこみ、その結果が、子どものすべてであるとする世界は、人の関係を固定化する。
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園田さんの教育のいわば象徴としてあるこの二つの実践は、こんにちの教育の中にある人間疎外と、まったく逆の位置にある。
園田さんの実践記録に触れて、わたしはそれを次のように定義した。
「教育の目的は子どもの自立を助けることである。その自明のことを、こんにちの教師ほど逸脱しているものはない。
一定の知識を子どもたちにつめこみ、その結果が、子どものすべてであるとする世界は、人の関係を固定化する。
そこでは教師も人間であるという当然のことが忘れさられ、教師は子どもたちの前に君臨し、管理の教育はいっそう強化されていく。
人間の社会でありながら、人のいとおしさとか、共に学び合うことの楽しさは毛頭なく、競争という非情さだけが支配する。
子どもたちに与えられた最初の組織的な自立の場がそのようなものだとすれば、そして子どもたちがそれに対して異議申し立てや批判することを許されないとすれば(じっさいは非行とか登校拒否という形で子どもたちの反乱はおこっているのだけれど)、子どもたちにとって教育の場というものは、地獄に等しいものでそこはもう早くくぐり抜けたいだけのなんの希望もない場所になる。
ざんねんながら学校というものをそういうふうに見ている、あるいは感じている子はなんと多いことか。
園田さんの教育は一言でいえば、そういう教育に対するアンチテーゼである。
自立を果たすのは子どもたち自身であり、教師はそれを助けるという関係を園田さんはかたくなに守ろうとする。
そしてそれは園田さんの思想とか、さし当たっての教育観からそうするのではなく、いわば園田さんの人間観から、そうせざるを得ないという必然が、その教育を強いものにしている」
(灰谷健次郎『優しさとしての教育』「Ⅰ 優しさとしての教育」63-64頁、新潮文庫)
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教育観はもとより、人間観を磨いていこう。
日本の将来を真剣に考えて投票する人間が果たしてどれだけいる?
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「先生、ほんとうは自分でそうおっしゃりたかったんじゃないですか。―――オトナになれよって」
「まあな」
泰山はいい、しばし自問するかのような間を置く。「たしかにいま、日本中がどうも子供じみているような気がする。政治家に女がいたらけしからんとなり、増税だといえばとんでもないとなる。一方で、各世帯に金をばらまくとか、高速道路を安くするとか―――そんな目先の利益に飛びつく。それでいいのか? いまのご時世、世論なんてものはどこにもない。あるのは要求だけだ。この日本に、日本の将来を真剣に考えて投票する人間が果たしてどれだけいる?」
(池井戸潤『民王』「第五章 スキャンダル」文春文庫、240頁)
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先日、職場の飲み会で読書の話題がでましたが、そういえば最近、小説は読んでないなと。最近は教育書がほとんど。
そこで、ふらっとBOOK OFFに寄ってみたわけです。おすすめされた北方謙三、石田衣良。そして、灰谷健次郎の本もついでに・・・。最後に池井戸潤の「民王」が目に入り、気になって購入してみました。池井戸潤は、敵を描くのがとても上手いという印象です。『空飛ぶタイヤ』『下町ロケット』しか読んでいませんが。
今の状況からも、読んでみる価値はあるかなと思いまして。
いやー、痛快! さすがですね。
総理大臣とそのドラ息子の中身が入れ替わり、息子が総理として、父親が就活の大学生として、それぞれの難局を乗り越えていく。
脳波がどうのこうので中身が入れ替わるというSFのような設定ですが、この設定のおかげで、政治や大企業の腐敗堕落をバッサリと切りまくる。遊んでばかりの大学生が、政治界、マスコミ業界に物申す! そして、一国の首相が就職面接の場で、企業のエゴや独自の論理に対して物申す!
一気に読み進めることができました。おもしろいです。
今、現実社会に目を向けても、大事な大事な「時」を迎えていますね。
消費税増税が一番の焦点かもしれませんが、ボクたちの日常生活に大きく関わるのが消費税ですし、家計への影響も大きい。増税は致し方ないですが、その中で軽減税率は有難いですね。
「どこに投票しても同じだ」という声はよく聞きます。が、数年前、政権交代した時はどうだったでしょうか。だからといって、今の状況が決して良いとは言えませんが、それでも私たちの生活を守ろうと必死になっている政治家もいるわけです。コツコツ努力している政治家を決してマスコミは報道しません。
身近なところでも、通学路に街灯を設置したり、狭かった踏切を広げてくれたり・・・。何度言っても動いてくれない政治家もいますけどね。金や地位のためしか考えていない政治屋も現実にいるわけです。その中で、本当に実績を残し、これからの日本、私たちの生活を考えてくれている政治家は誰か。自他共の幸福の哲学を持って、行動する政治家は誰か。しっかりと見極めていきたいと思います。
私たちの声を聴いてくれる政党・政治家を応援したいですね。
青年は、心して政治を監視せよ。
ペンは剣よりも強し
親愛なる兄弟姉妹のみなさん、光の大切さがわかるのは、暗闇の中にいるときです。声の大切さがわかるのは、声をあげるなといわれたときです。それと同じように、パキスタン北部のスワートが銃だらけになったとき、わたしたちは、ペンと本の大切さに気づきました。
わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女
- 作者: マララ・ユスフザイ,クリスティーナ・ラム,金原瑞人,西田佳子
- 出版社/メーカー: 学研マーケティング
- 発売日: 2013/12/03
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