学者になってはならぬ、人は実行が第一である

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 少年期というのは感受性が鋭く、つねに何が「本物」で、何が「偽物」なのかを真剣に知りたがっている。それだけに、純粋な嗅覚を持っています。だから机上の空論をもてあそんんだところで、すぐに「偽物」は見抜かれてしまう。

 松陰の外見は貧相でした。がりがりに痩せていたし、見るからに腕っぷしも強そうではない。しかもあまり風呂に入らぬから、近づくと臭い。ともかく、外見に頓着する人ではなかったことは確かです。

 しかし、少年たちは、そんな松陰を軽んじることは、決してありませんでした。

 それは少年たちの目に、なによりも松陰が魅力的な、「本物」の「英雄」として映っていたからだと思います。

 松陰は学問の心得として、

「学者になってはならぬ、人は実行が第一である」

 と、つねに塾生に説いていました。そして自らも、この教えを実践してきたのです。

 脱藩して東北を遊歴したり、アメリカ密航を企てたりといった一見、血気にはやったような危険な行動も、若い門人たちからすると、血湧き肉躍る「冒険譚」や「武勇伝」でしょう。現代で言うなら、パスポートを携帯せずに世界じゅうを飛び回ったとか、宇宙からやってきたUFOに乗り込もうとしたとか、そういった話に匹敵するものだと思います。

 萩以外の世界を知らない塾生の多くは、松陰の話を「窓」にして、そこから外の世界を見ようとしました。

 塾生の横山幾太は当時、松陰の名は萩では子どもや夫人に至るまで、知らない者はなかったと述べています。その横山もまた、松陰を一目見ようという好奇心をもって出かけ、入門してしまうのです。塾生にすれば、数々の凄い体験を重ねている「本物」の「英雄」が、松陰なのです。

 しかも、そこには一片の私心も無い。松陰はただひたすら日本の将来を案じ、我が身の危険を承知で行動していたのですから、それを知った少年たちの魂は、激しく揺さぶられたに違いありません。

 そして師の背中を見た塾生たちは、今度は、

「自分たちが、なんとかしなければ!」

 との気持ちを高めてゆくのです。

 松陰は塾生たちを単に、理屈で「教化」したのではありません。自分の姿を見せて、「感化」してしまったのです。だから、強い。

 

(一坂太郎 『時代を拓いた師弟 吉田松陰の志』「第五章 松下村塾を主宰」137-139頁、第三文明社

 

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2015年、明けましておめでとうございます。

本年も、例年以上にたくさん悩み、もがきながら成長し、大きく躍進しゆく年として参りたい。

どうぞ、よろしくお願いします。

 

 

時代を拓いた師弟──吉田松陰の志

時代を拓いた師弟──吉田松陰の志

 

 

仕事が自分の活動だけで自己完結しないということ

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  仕事が自分の活動だけで自己完結しないということは、職人仕事の満足感も、能力の発揮、仕事の主人たること、遊びのように働けることなど自分の側の条件だけではけっして得られないということである。満足のいくものつまり一定の水準にあるものが作れること、品物を使う人も満足来てくれることになどによって、初めて制作者自身の満足は得られるものだろう。モリスのいう創造の喜びも、「真に有益なもの」や「美しいもの」を作ることができたとき、つまり自己の外にある他者や普遍的な価値に結びついたときに満足感は最高のものとなるだろう。ギルのいう神聖性にふれる喜びとは、そのことをいわば極限の形で述べているのだと思われる。仕事の喜びや満足感も、自己と対象という閉じた関係の中だけで生まれてくるのではない。
 
(杉村芳美『「良い仕事」の思想』「第7章  良い仕事と全体性」185頁、中公新書
 
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終業式を終えて、23日から冬休みですが、職員は研修です。
24日、25日と校内研修会。クリスマスもへっったくれもないわけですが、クリスマスの予定なんて無いわけですから、仕事で結構けっこう。コケコッコ―。
 
「子どもの喜びは教師の喜びになるが、教師の喜びは子どもの喜びにはならない」という校長の言葉は忘れません。
教師の喜びはあくまでも子どもや保護者の姿から発現されるものですし、教師の自己満足は子どもや保護者の喜びにはならない。
 
さて、今日の研修会も学ぶこと多いです。
各学年のレポート(2学期分)の検討。
1年目の職場で先輩から「若いもんから発言していかなアカン」というご指導と、授業(今回はレポートですが)を見せてもらったら必ず意見を述べないといけないということを意識し、率先して発言を心掛けたのですが、深まらない意見しか言えずに反省・・・。他の先生方の意見に学ぶこと多し。
各担任の先生方の実践には脱帽です。普段から家庭訪問に出掛けています。教育者として学校だけではなく、保護者と共に子育てをしていく実践が積まれています。プロとしての自覚と責任感を持つことはもちろんですが、それが行動を伴って体現されている、また結果として表れているのがすごいと思うわけです。感心してばかりはいけません。自分も担任ではない立場として、できることを探しながら研修を深めていきたいと思います。今後のためにも学ぶことを止めることはできません。
 
今日の研修会の中で出た「子育てのプロはいない」という先輩の言葉がありました。さらっと言っていたのですが、大事なことだなと思いました。
子育てに不安を持たない親はいないわけですから、保護者は先生や周りの保護者と子育てについて相談できる関係がとても大事。この関係を作っていく、あるいはそのきっかけを作っていくのも教師の役割だと思いますし、ここで思ったのは、教師間でも相談することが大切だということ。子どもの具体的な姿を通して、研修していくわけですが、担任の悩みや不安、苦しみを共有できる職場が強いんだろうなと思いました。互いに高め合っていく関係。これは子ども同士の関係でも目指していく関係ですが、子どもたちが学び合い、高め合っていくのと同じように、否、子どもにその姿を求めるのであれば、教員たちが学び合い、高め合っていくこと。それが今の職場にアリアリと感じます。
 
子どもや保護者の姿から嬉しくなったり、喜んだり、また悩み、苦しみ、学んでいく。
担任一人では、決して真の喜びは得られないのでしょうね。
「喜とは自他ともに喜ぶ事なり」との先哲の言葉を忘れない。
 
 
明日も研修。
 
 
ps,
身近でインフルエンザ第1号が出ました。快復を祈るとともに、自分の体調管理の徹底を心掛けたい。皆さんもお気をつけてください。
手洗い・うがいの徹底だけでも予防になるそうですよ。
 
 

 

「良い仕事」の思想―新しい仕事倫理のために (中公新書)

「良い仕事」の思想―新しい仕事倫理のために (中公新書)

 

 

一定の知識を子どもたちにつめこみ、その結果が、子どものすべてであるとする世界は、人の関係を固定化する。

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 園田さんの教育のいわば象徴としてあるこの二つの実践は、こんにちの教育の中にある人間疎外と、まったく逆の位置にある。

 園田さんの実践記録に触れて、わたしはそれを次のように定義した。

「教育の目的は子どもの自立を助けることである。その自明のことを、こんにちの教師ほど逸脱しているものはない。

 一定の知識を子どもたちにつめこみ、その結果が、子どものすべてであるとする世界は、人の関係を固定化する。

 そこでは教師も人間であるという当然のことが忘れさられ、教師は子どもたちの前に君臨し、管理の教育はいっそう強化されていく。

 人間の社会でありながら、人のいとおしさとか、共に学び合うことの楽しさは毛頭なく、競争という非情さだけが支配する。

 子どもたちに与えられた最初の組織的な自立の場がそのようなものだとすれば、そして子どもたちがそれに対して異議申し立てや批判することを許されないとすれば(じっさいは非行とか登校拒否という形で子どもたちの反乱はおこっているのだけれど)、子どもたちにとって教育の場というものは、地獄に等しいものでそこはもう早くくぐり抜けたいだけのなんの希望もない場所になる。

 ざんねんながら学校というものをそういうふうに見ている、あるいは感じている子はなんと多いことか。

 園田さんの教育は一言でいえば、そういう教育に対するアンチテーゼである。

 自立を果たすのは子どもたち自身であり、教師はそれを助けるという関係を園田さんはかたくなに守ろうとする。

 そしてそれは園田さんの思想とか、さし当たっての教育観からそうするのではなく、いわば園田さんの人間観から、そうせざるを得ないという必然が、その教育を強いものにしている」

 

灰谷健次郎『優しさとしての教育』「Ⅰ 優しさとしての教育」63-64頁、新潮文庫

 

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教育観はもとより、人間観を磨いていこう。

日本の将来を真剣に考えて投票する人間が果たしてどれだけいる?

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「先生、ほんとうは自分でそうおっしゃりたかったんじゃないですか。―――オトナになれよって」

「まあな」

 泰山はいい、しばし自問するかのような間を置く。「たしかにいま、日本中がどうも子供じみているような気がする。政治家に女がいたらけしからんとなり、増税だといえばとんでもないとなる。一方で、各世帯に金をばらまくとか、高速道路を安くするとか―――そんな目先の利益に飛びつく。それでいいのか? いまのご時世、世論なんてものはどこにもない。あるのは要求だけだ。この日本に、日本の将来を真剣に考えて投票する人間が果たしてどれだけいる?」

 

池井戸潤『民王』「第五章 スキャンダル」文春文庫、240頁)

 

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先日、職場の飲み会で読書の話題がでましたが、そういえば最近、小説は読んでないなと。最近は教育書がほとんど。

そこで、ふらっとBOOK OFFに寄ってみたわけです。おすすめされた北方謙三石田衣良。そして、灰谷健次郎の本もついでに・・・。最後に池井戸潤の「民王」が目に入り、気になって購入してみました。池井戸潤は、敵を描くのがとても上手いという印象です。『空飛ぶタイヤ』『下町ロケット』しか読んでいませんが。

今の状況からも、読んでみる価値はあるかなと思いまして。

 

いやー、痛快! さすがですね。

総理大臣とそのドラ息子の中身が入れ替わり、息子が総理として、父親が就活の大学生として、それぞれの難局を乗り越えていく。

脳波がどうのこうので中身が入れ替わるというSFのような設定ですが、この設定のおかげで、政治や大企業の腐敗堕落をバッサリと切りまくる。遊んでばかりの大学生が、政治界、マスコミ業界に物申す! そして、一国の首相が就職面接の場で、企業のエゴや独自の論理に対して物申す!

一気に読み進めることができました。おもしろいです。

 

今、現実社会に目を向けても、大事な大事な「時」を迎えていますね。

消費税増税が一番の焦点かもしれませんが、ボクたちの日常生活に大きく関わるのが消費税ですし、家計への影響も大きい。増税は致し方ないですが、その中で軽減税率は有難いですね。

「どこに投票しても同じだ」という声はよく聞きます。が、数年前、政権交代した時はどうだったでしょうか。だからといって、今の状況が決して良いとは言えませんが、それでも私たちの生活を守ろうと必死になっている政治家もいるわけです。コツコツ努力している政治家を決してマスコミは報道しません。

身近なところでも、通学路に街灯を設置したり、狭かった踏切を広げてくれたり・・・。何度言っても動いてくれない政治家もいますけどね。金や地位のためしか考えていない政治屋も現実にいるわけです。その中で、本当に実績を残し、これからの日本、私たちの生活を考えてくれている政治家は誰か。自他共の幸福の哲学を持って、行動する政治家は誰か。しっかりと見極めていきたいと思います。

私たちの声を聴いてくれる政党・政治家を応援したいですね。

 

青年は、心して政治を監視せよ。

 

 

 

民王 (文春文庫)

民王 (文春文庫)

 

 

ペンは剣よりも強し

 

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  親愛なるみなさん、二◯一二年十月九日、わたしは左の側頭部をタリバンに撃たれました。わたしの友だちも撃たれました。タリバンは、ピストルでわたしたちを撃てば、わたしたちを黙らせることができると考えたのでしょう。でも、そうはいきませんでした。わたしたちが声をあげられなくなったとき、何千人もの人々が声をあげたのです。
(中略)

  親愛なる兄弟姉妹のみなさん、光の大切さがわかるのは、暗闇の中にいるときです。声の大切さがわかるのは、声をあげるなといわれたときです。それと同じように、パキスタン北部のスワートが銃だらけになったとき、わたしたちは、ペンと本の大切さに気づきました。

「ペンは剣よりも強し」ということわざがあります。まさにそのとおりです。過激派は、本とペンを恐れていました。そしていまも恐れています。教育の力が怖いのです。彼らはまた、女性を恐れています。女性の声が持つ力が怖いのです。だから、彼らは人を殺すのです。最近では、クエッタの罪もない学生を一四人も殺しました。カイバル・パクトゥンクワ州では女性教師や、ポリオ撲滅をめざす活動家を何人も殺しました。毎日学校を爆破するのも、同じ理由です。昔もいまも、彼らは変化を恐れているのです。私たちの活動によって、平等な社会が生まれたら困ると思っているのです。
 
(マララ・ユスフザイ、クリスティーナ・ラム 『わたしはマララ』金原瑞人、西田佳子 訳 「国連本部でのスピーチ」420-421頁、学研パブリッシング
 
 
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ご無沙汰。
 
マララさんの活動・主張は、教材として子どもたちに展開できるのではないか。との職場での話題から、本書を購入してみました。
結局、今回は教材として展開しなかったわけですが、今後、自分が担任を持ったりした時に、また、その時々の子どもたちの実態に合わせて、マララさんの生き方・主張を教材として展開できるように準備しておくことは決して無駄ではない。
マララさんの主張はなんとなくニュース等で見聞きしてはいましたが、本書を読むまでは、知らないことばかりで、マララさんの生い立ち、普段の家庭や学校での生活、また国内情勢、スワートの美しい自然の風景など…マララさんの主張の背景を知ることができ、国連本部でのスピーチも、本書を読む前と後では言葉の重さが違うように聞き取れます。
 
権力者は、民衆が政治や教育に無関心であることを望む。民衆が賢くなることを良しとしない。
 
おかしいことを「おかしい」と言える感性や勇気を身につけるのは、やはり教育の力。
学ばなければ、「おかしい」ことに「おかしい」と気づくこともできない。
戦前の日本がそうであったように、富国強兵のスローガンのもとで、教育によって、国のために死ぬことが名誉であるかのように歪んだ価値観が形成された。
平和は教育を出発点とするし、また教育も平和を出発点としなければならない。
 
平和のための闘争と、真実を学ぶこと。
行動と学びが重要ですね。行学。
 
 
 

 

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わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女

わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女

 

 

 

 

 

子どもが自発的に熱中する活動は、子どもが育つことそのもの

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  子どもが自発的に熱中する活動は、子どもが育つことそのものなのです。それは大人の計画や教育以上のものです。自分ができるようになった力を使って発見し、新しい知識を得る。そして「できた!」「やった!」という自分で成し遂げたことで得られた満足感は、人から教えられては得られないことであり、知識を教えられることよりもはるかに貴重な経験です。
  60年ほど前、児童心理学者シャーロット・ビューラーは、子どもが自分に出来るようになった力を用いることに喜びを見出し、その力によって様々なことを発見し、育つことの重要性を指摘しました。彼女はこれを「機能の喜び」と名づけていますが、自分の力(機能)を使うこと自体が子どもにとって喜びであり、それによって学び、育つという、人間の発達の本質をいい得て妙だと思います。
  現代は、この「機能の喜び」がとかく無視されているのではないでしょうか。親は「良育」にせっかちなあまり、子どもが熱中していることに我慢できないようです。遠回りにも時間の無駄にも見えるのでしょう。そのため、自分の考える「よかれ」の計画路線に子供歩ませようとします。
  ユネスコの就学前教育プロジェクト(2007年)は次のような報告をしています。すなわち、子どもが4歳の時、その子の興味や関心に沿って自発的な活動する保育(自由遊び中心)を受けた子どもは、読み書きや計算能力を高めることをねらいとした保育を受けた子どもよりも、七歳時の読み書き能力が高かったというのです。早期の知育限定の教え込みが必ずしも効果を上げないこと、逆に「機能の喜び」を味わう自発的、探索的な活動の方が重要なことなどを示唆しているといえるでしょう。
  「機能の喜び」を味わう機会の減少は、自分が学ぶ力をもっていることについて知る体験を、子どもから奪うことでもあります。同時に、子どもの自己効力感を育てる機会をも奪っています。日本の子どもたちは、ある程度の能力をもっていても自信をもてない傾向が強いのですが、自力達成の機会の少なさも一因でしょう。親の過剰な教育熱がかえって、子どもが自ら育つことを疎外してしまっているのです。その意味でも、子どもの「発達権」の保障は急務です。
 
(柏木惠子『子どもが育つ条件 ー家族心理学から考える』「第4章 子どもが育つ条件とは」154-155頁、岩波新書
 
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先日の研究授業での反省点でもあるのですが、いかに子どもの発言を出させて、子どもたちが主体的、自発的に学びを深められるようにするかが課題となりました。
それは、こちらの発問の工夫、課題提示の仕方、具体物の工夫とその提示のタイミングなどの方法論が中心なのですが、それらの準備に加え、子どもたちが試行錯誤する場をどのようにしかけるか、予想を出すだけでなく、その理由も考えて説明させるなど、子どもの声を拾い上げ、それを板書するなどの手立てをして、子どもたちが主導となる授業展開も考えられました。
こちらが説明してしまったり、まとめてしまったり・・・。子どもに教え込む形となり、自分が目指している授業とは正反対の授業となってしまいました;
まぁ、自分も授業をしていてミスの連続だというのは感じており、事後検討前から心が折れていたのですが、それをさらにボキボキと・・・w
いや、勉強になりました。ホント。自分の授業観を見直すいい機会となりました。
 
いかに、子どもの声を引き出すか。
いかに、子どもたちが主体的に学びを深めていけるか。それをどう仕掛けるか。子どもたちに「やらされてる感」をもたせずにできるかどうか。
身近なものを教材にして、授業の導入を考えたり。
5年生の理科では、台風のことから洪水の話になり、小学校前の川の話になり、そこから、川は海に流れていて、そこは三角州でできた香良洲町があり、そこで「どうして三角の形をした町ができたのか」を取り上げ、川の流れのはたらきの学習につなげたりと。子どもたち自ら土の山で川を作り、じょうろで水を流し、川の浸食、堆積などを見ることができました。そこでは、「すげー削れてる!」「ここは綺麗な川みたい」「台風の時の川もこんな感じかな」「香良洲町もこうやって自然にできたのかな」と、いろいろなステキな発言が出ていました。
 
理科の学習は、実験や観察が多いので、こうした体験的な学習があり、子どもたちの興味関心を引き出すことができるのですが、いくらイイ教材を準備しても、子どもの感情を刺激するのは、教師の人間性であると校長先生から教えていただきました。
子どもと共に、驚き、考え、想像し、喜ぶ。教師は演者でもなければいけません。
 
子どもが自ら探求する心を大切にしながら。
 
 

 

子どもが育つ条件―家族心理学から考える (岩波新書)

子どもが育つ条件―家族心理学から考える (岩波新書)

 

 

変化球を交えて、高低にメリハリをつけた声からは豊かな感情が伝わる

 

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  バッティングマシーンのように、あらかじめ決められた通りのボールを次々投げるような人工的でワンパターンな音声では人の思いが届かない。そっと下から柔らかくボールを手渡すようにした抑え目の声からは、思いやりの心が言葉に乗って伝わってくる。

  変化球を交えて、高低にメリハリをつけた声からは豊かな感情が伝わる。ストレート一本に的を絞った力強い声は、真剣だぞ!というメッセージを伝える。こんなふうに音声の投げかけ方そのものに意味がある。

 

梶原しげる『即答するバカ』「第1章 ちょっとした物言いの「すごい力」」117-118頁、新潮社)

 

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久しぶりの更新。

多忙の日々を送っているということで。

 

昨日の深夜、熟睡中に膝を負傷してしまいました…。

なぜ寝ている時に、と思うかもしれませんが、自分でもビックリ。しかも今年2回目。

前回はその日が日曜日ということで、1日中家でゴロゴロしていました。ケガというのは、膝の筋を痛めたもので、骨には異常がなく、膝を伸ばそうとすると激痛が走る。膝を90度に曲げている状態をキープしなければなりません。家の中をケンケンで移動するという滑稽な1日を過ごしました。早朝に膝を痛め、その日の14時頃にふとした瞬間に治ったという不可思議なケガでした。

今回は、木曜日の深夜に発生。激痛で目が覚め、時計を見ると、2時。これは間に合わないかなぁと思いつつ、朝を迎え、膝は伸びない…。

病院で松葉杖を借りて、遅れて学校へ行きました。松葉杖で仕事をするのは不自由極まりない。いかに普段、普通に歩けることが有難いことか、痛感しました。階段も一苦労。

しかし、子どもたちがよく手伝ってくれました。優しい子どもたちです。

今日の朝になっても治らず、松葉杖で授業を。たまたま6年生は修学旅行で授業がなく、2コマだけでしたので、負担は少なく助かりました。

そして、帰宅し、夕食を終え、松葉杖で部屋に向かおうとした瞬間。足の痛みが消え、膝が伸びるではありませんか!  今回も突然治りました。なんとも厄介で不可思議なケガ。怖いですね。

原因としては、おそらく寝ている時、寝返りをする際、足を伸ばそうとした瞬間、つま先が布団かシーツに引っかかり、膝は伸びようとしているのに伸びない。その瞬間、膝がピキッと…。捻挫のようになったと思います。筋が変な方向に入り込んでいるのか、ねじれているのか分かりませんが、正常な状態ではないことは確かです。それがふとした瞬間に、正常な状態に戻り、痛みも一瞬でなくなるということだと思います。

3連休を家で過ごすことになるのかと、不安になっていましたが、一安心です。

皆さんも寝返りをする際にはご注意をw

 

ps,

膝を負傷する2日前。研究授業を行いました。4年生理科で授業を見てもらいました。

内容、結果は散々なもので…。

改めて授業について考えさせられました。まだまだ自分の授業観は確立されていません。たくさんのことを学び、授業の力量を高めていきたい。

詳細はまた後日。

 

 

 

 

 

即答するバカ (新潮新書)

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