患者は物語をもって病院を訪ね、診断をもらって帰る
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ところが、語りというのは上下関係がなくなってくるのです。一緒に面白い語りをしなければ帰ってしまいますからね。「告げる」の上下関係に対して、「語る」ということは関係がだんだん深まっていくのです。そういうことが非常にうまく書いています。
このような点から。私は、「物語は大事だ」と主張するようになりました。僕の考え方だったら、僕は自分の人生というのを「僕の物語を生きているのだ」とおもっているわけです。皆、それぞれの物語を生きている。
自然科学の知恵と神話の知恵とは違うという話をしましたがそれと同じことで、たとえば、「コップから水を飲む」というのはあたり前の話です。「水を飲んだのですよ」と言わなくてもいい。ところが、こういうことがあります。「とうとう水を飲んだんですよ」と聞くだけで大感激というときがあります。障害児でなかなか手で持てない子、高齢者でボケてきて何もできないと思っていた人がだんだん意欲が出てきて、「自分で水を飲んだんですよ」というとき。そのときは、水を飲むということが物語の中核になります。「ついにやったあ!」に対して、「飲んだ」というのはファクト、事実です。そのときに、この人のどういう物語の、どういう文脈のなかでそれが行われているか。物語ということがわかってくると、人と人とのつながりもできる。人と人との心は、物語によってつながっていることが多いです。
(中略)
たとえば私が、「あれもしたい、これもしたい。生まれて初めてこういうことがあって、今度こそあれをやろう」などと思ったときに、胸のあたりが痛くなって、「ちょっと病院に行ってくるか。治ったらあれをやるんだから」と思っているのに、病院に行ったら、お医者さんが「肺癌です。即入院です」。「えー!」と言ったら「ほとんど手遅れです。手術して助かるか、助からないか。手術をしなかったら、あと二か月ですね」なんていうことを、お医者さんから告知されます。そのときのことについて、この著者のお医者さんたちが書いているのです。「患者は物語をもって病院を訪ね、診断をもらって帰る」。物語がバーンと、一挙に潰れるのです。
お医者さんから言わせたら、「ああ、あれですか、癌です、末期です」。その通りです。でも、本人からいったら、私のせっかくの物語の始まりのところでなぜ殺すのですか。別に医者が殺すわけではないけれども、そう言いたいほどの体験になります。そういうことまでわかって医療をしないとほんとうの医療にならないということを、この人たちは言いだしたのです。僕はすごい歓迎をしているわけです。
(河合隼雄 『河合隼雄の読書人生 深層心理への道』「15 物語の意味」222-224頁、岩波書店)
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お久しぶりですね。1ヶ月以上も書いておりませんでした。
夏休みに入っても、教員採用試験に追われていました。なんとか1次は合格し、やっと2次試験が終わったと思ったら、もう夏休みが終了。
あっという間の夏休みでしたね。
校内研修も多くある中で、試験対策といえば、ピアノの練習ぐらいだったようなw
その中でも、地域の夏祭りに参加したり、親戚が集まったり、県外に引っ越した教え子にバッタリ再会したり、映画を観たり・・・。まぁ色々ありました。
さて、いよいよ2学期。新学期です。
子どもたちは、夏休みに普段できないようなたくさんの経験をして学校へやってくることでしょう。
半日じゃ聴けないほどに、たくさんの物語を語ってくれることでしょう。楽しみです。
2学期も怒涛の日々であり、意味のある実践を重ねないと、あっという間に過ぎてしまう。
ps,
河合隼雄先生、やっぱりすごい人だな~と思いました。
目からウロコ。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。
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教師というのは、生徒をみつめてはいけない。生徒を操作しようとしてはいけない。そうではなくて、教師自身が「学ぶ」とはどういうことかを身を以て示す。それしかないと私は思います。
「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。これは「操作する主体」と「操作される対象」という二項関係とはずいぶん趣の違うもののように思います。
前にラカンを引いたときに、教師が教師として機能するのは教壇に立っているからだと申し上げました。「人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている。教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してない」。ラカンはそう言っていました。「教壇に立つ」というのは、そのこと自体が「私は教育の有効性を信じている」と信仰告白することです。
私もまたかつて教壇の「そちら側」に座っていて、師の言葉を書きとっていた。今、私は教壇の「こちら側」に立っていて、私の言葉を書き取らせている。そういう立場になることになったのは、私がこの「教壇をはさんで成立する関係」を信じたからである。その関係を信じるものは、いずれこの教壇の「こちら側」に立つことができる。教師は教壇に立っているだけですでに無言のうちにこれだけのことを述べているわけです。何も言わなくても、何をしなくても、「私は教壇をはさんで行われる知の運動を信じる」という信仰告白を、教師は教壇のこちら側に立つことによってすでになし終えているのです。
それを言い換えると、「私もかつては師の弟子であった」と告げるということです。教壇をはさんで行われる知の運動を信じるというのはそういうことです。「私には師がいた」というのが、教師が告げるべき最初の言葉であり、最後の言葉なのです。
ですから、学びの場というのは本質的に三項関係なのです。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。さきほどの発表者が「教育におけるインプリケーションのためのシステムの構築」のことです。そして、この「(その場にいない)師の師」こそが、学びを賦活する鍵なのです。
(内田樹 『街場の教育論』「第7講 踊れ、踊り続けよ」142-143頁、ミシマ社)
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「人生における」師がいることの幸せ。
師弟関係は、人間の世界にしかない。動物の世界では、「親子関係」はあるが「師弟」はない。「親分関係」はありますが・・・。師の激励と弟子の応戦は、人間にしかできない崇高な関係だと思います。
また、師は弟子としての模範を示してくれます。かつて師匠にも、その師匠がいたのですから。
ボクも弟子として、今の立場でできることを精一杯することです。あまりにも偉大な人生の使命を自覚することは難しいですが、今いる場所、地域で責任と使命を果たしていきたい。
師は弟子の勝利を待っている。
ps,
気がつけば、7月。
残り2週間。どのように夏休みを迎えようか。しっかりと学びの質を高めて夏休みに突入したい。
そして、試験・・・;
5度目の挑戦となります。
学び続けろということでしょうか; しかし、参考書とはオサラバしたい!!
苦悩を突き抜け歓喜に至れ!
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ここは男と女だけではない
偏見・差別 先入観もない
母と子笑いさざめいてる世界
年もとらなきゃ病でも負けない
別に天国じゃない 夢でもない
ただし悩むことからは避けられない
たとえ苦しんでも楽しませたい
なら苦悩を突き抜け歓喜に至れ!
(Def Tech『Howzit!?』「Freeing Ur Pain」)
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Def Techの2年ぶりのアルバム、やっと手に入れました。
最強のジャワイアン!!
今回もええ感じになっておりますよ。
この夏は、Def Techで決まりです!
ps,
「悩みをつき抜けて歓喜に至れ!」とは、ベートーヴェンの金言ですが、これがMicroも歌っているとは、やはりというか、さすがです。
悩みがなければ悟りもない。
悩みや困難がない人生が幸せではないことはたしかです。生きていくうえでは、必ず困難な壁にぶつかるわけですから、それに勝つか負けるかの違いだけです。
人生は勝負。
いまの世の中は一滴一滴の水が力をもち、自分の意思で世の中を変えていく
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「水は人民だ。川の流れも、湖も、あるいは海でさえも、バラバラにしてしまえばたどり着くところ一滴の水になる。しかし一滴一滴の水には力がない。集まって湖となり、川となってひとつの形をなしたときに、力を得る。しかし、水自体にみずからの形はない。方すなわち四角いものに入れられれば四角く姿を変え、円すなわち丸い物に入れられれば丸く姿を変える。したがって、容器の形態に水は自分を合わせる。これが水は方円の器に従うということばの意味だろう。おれもそう思ってきた。ところがきょう会議を開いていて、そのことばもいまは変わったなということを感じた」
「よくわかりません」
「つまり、いまの世の中は一滴一滴の水が力をもち、自分の意思で世の中を変えていくということだ。范増がきょう話したことは、たしかにいままでの考え方からすれば、王家の血統を重んじ、いわゆる貴種尊重という形でわれわれの指導者を選び出そうということだろう。しかし、それを求めているのも一滴一滴の水、すなわち人民の意思なのだということをおれはつくづくと感じたよ。きょうの会議で、范増は陳王と呼ばずに陳勝と呼び捨てにして、范増自身は、決して陳勝を敬愛していないことを示した。したがって、かれは陳勝を決して王とは呼ばない。王と呼ばないのではなく、呼びたくないのだ。これはむかしながらの貴種尊重の伝統を、范増がそのまま保っているということだ。ところが、一方には陳勝を陳王として、敬愛の念を強くもっていた者がたくさんいる。したがって、いまのこの国では、方円の器に従う水の群れと、逆に方円の器を従わせる水の群れとが共生しているということを物語る。おれがつくづくと感じたのは、自分の意思をもちはじめた一滴一滴の水の存在だ。これは恐ろしい。おれたちもよく考えなければならぬ」
(童門冬二 『項羽と劉邦 知と情の組織術』「第三章 項羽をめぐる群雄」109-110頁、講談社文庫)
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司馬遼太郎さんの『項羽と劉邦』は最高に面白かったですが、童門冬二さんも読みやすくて面白い。
学ぶこと多し。
小説としても面白く読めます。
ps,
担任になり、読書量がめっきり減ってしまいましたが、学ぶことを止めるわけにはいきません。
- 作者: 童門冬二
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退屈なのは、世界の責任じゃない。
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退屈なのは、世界の責任じゃない。
怠惰な僕たちの創り出している世界が、退屈なだけなのだ。
だから、
目を見張れ。
耳をすませ。
感覚を研ぎ澄ませろ。
そして、準備を怠るな。
驚異的なダッシュを見せつけるために、身軽になれ。
誰かが勝手に決めた偏差値。
あいつらに植え付けられた劣等感。
ありきたりな常識。
過去のちっぽけな栄光。
ありふれた未来を約束する保険。
すべてを捨て去れ。
リセットボタンを押し続けろ。
何度でも、ゼロに、戻れ。
米倉の口が、開いた。
言葉が、前進に突き刺さる。
いま、引き金が引かれる。
僕たちの革命が始まる。
「君たち、世界を変えてみたくはないか?」
(金城一紀 『レヴォリューションNo.0』155-157頁、角川書店)
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GWいかがお過ごしでしょうか。
GW中も職場へ出ることがありましたが、家族で出かけたり、友人とご飯に行ったりすることもできました。
明日からまた子どもたちとの学びの日々が始まるわけですが、5月も退屈に過ごすことなく、走り回る日々になりそうです。
頭で納得できても心が納得しなかったら、とりあえず闘ってみろよ
4月から3年生の担任をもたせていただくことになりました。
昨年度の忙しさは何だったのか。
4月から夜も遅く、朝も早くなって、やることもたくさん。
土日は、平日にできないことを進める。
毎日が充実しすぎている。
元気いっぱいの子どもたちと共に汗をかき、恥もかき、レポートも書いていきます。
自分自身と闘いながら。
ps,
多忙極まりない中、読書も少しずつですが進んでおります。
最近、金城一紀さんにハマっております。
『対話篇』
『レボリューションNo.3』
そして
『SPEED』
を読みました。
ということで、本日『レボリューションNo.0』を購入。
ちょびちょびと愉しみながら読んでいこう。