大切なのは、安易に「標準」を立てて、そこから外れた状況に育つ子どもはダメだなどと切り捨ててしまわずに、したたかに生きる脳の働きを重視し、育むこと

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 いかに、自分が実際に置かれてしまった状況を引き受けて、それを生に転ずることができるか。大切なのは、安易に「標準」を立てて、そこから外れた状況に育つ子どもはダメだなどと切り捨ててしまわずに、したたかに生きる脳の働きを重視し、育むことだろう。

「早寝早起き朝ご飯」といったスローガンを立てるのはいい。規則的な生活をすることで、すくすくと育っていく子どももいるだろう。しかし、たとえば、母親が仕事で夜遅く帰ってくるので、寂しくて起きて待っている子どももいるかもしれない。父親がプログラマーで、小学生のときからコンピュータを一緒にやって、ついつい夜遅くまでプログラムを書いてしまう子どももいるだろう。そのような子どもたちはいけない、というようなロジックは生命の本質から遠ざかるだろう。

 人間は偶有的な存在である。偶有性こそが、生命を進化させてきた。どのような状況であっても、そのような「偶然」を「必然」として引き受けて、活かしていくしたたかさを私たちの脳は持っているはずである。

 スピノザが言うように、神がすべてを包含する「絶対的な無限」であるとするならば、人間は有限の立場に置かれることによってかえって多様な存在となる。偶然を必然にするという生命の本質は、「挑戦する脳」の中に顕れるのである。

 

茂木健一郎『挑戦する脳』「6 偶然を必然とする」70-71頁、集英社新書

 

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お久しぶりです。

 

今年度最後の日です。

明日からは、新しい職場で新スタートです。新採の新米教師として、ゼロからのスタートの気持ちで頑張ります!

 

3学期、これまでにない多忙さを経験しました。修了式、つまり離任式の前日は、成績や配布物の確認や、黒板に最後のメッセージを書いたり、子どもたちへの手紙を書いていたら、午前4時になってました…。

数時間だけ寝て、出勤。離任式の挨拶の内容も考える暇なく、子どもたちと最後の学校生活を送り、最後の離任式の挨拶で子どもたちの前に立ちました。

昨年度は、専科として4、5年生とも関わりがあったので、4、5年生に向けて話をして、ふと3年生を見ると、子どもたちが目を押さえているではないですか!その姿を見た瞬間にやられました…。なんとか最後まで話して、子どもから花束を受け取りました。その子の最後の言葉は、一生涯忘れることはないでしょう。

見送りの時には、3年生の子どもたちは、ほとんど号泣。

いつも叱ってばかりで、なかなか褒めてあげることができなかったですが、最後の子どもたちの姿を見て、最後まで担任を続けることができて良かったなと思いました。

 

修了式後は、教室や職員室の机の中の書類等の後片づけで、ほとんど休むことなく、今日までやってきました。

今年度最後の日、ある保護者の方から、雪柳の切り花を頂きました。ほんと嬉しかったです。今年の学級通信のタイトルは、「Yukiyanagi」でした。日々、子どもたちの様子をお伝えしたり、行事予定をお知らせしたり、学校と家庭をつなぐ、一つのアイテムとして、「Yukiyanagi」を発行してきました。

その雪柳の満開の花を頂き、感無量。わざわざ咲いているところを探してくれたそうです。

 

2年間という短い間でしたが、学ぶべきことが多く、濃厚な2年間でした。

本校の研修は厳しく、子どもを見る眼を絶えず振り返り、教職員間で学び合ってきました。夜遅くまで職員室には電気がついており、日々、子どもたちの教育に全力を注ぐ先生方。

地域や保護者の皆様も、学校教育を支えてくださっていることを痛感しました。特に担任を持たせていただき、また、地域の方々との出会い学習を通してより強く実感しました。運動会や文化祭など、学校行事、地域行事には、職員も地域の方々も保護者の皆様も、そして子どもたちも参加し、学校・家庭・地域で共に子育てをしているところだなと感じています。

まだまだ未熟者の僕が担任をやり切ることができたのも、保護者の皆様、地域の方々、校長先生や周りの先生方、そして子どもたちがいたからです。よくあるありきたりな言葉ですが、本当にそう感じた1年間でした。

 

明日からは立場も変わって、新規採用の教諭としてスタートします。

これまで甘えてこれたことも、もう甘えることはできないでしょう(泣)

さらに、学び続けて自分の限界を突破していきます!

 

ではまた。

 

 

挑戦する脳 (集英社新書)

挑戦する脳 (集英社新書)

 

 

なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということを繰り返すこと

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 目の前に問題が発生し、何らかの壁に当たってしまったときに、そこから逃げてしまうほうが、効率的に思えるかもしれません。実際に、その時のことだけを考えれば、「得」のようにも見えます。ところが、そうやって回避しても、結局はまたその手の問題にぶつかって、立ち往生してしまうものなのです。
 大学紛争のときのことを思い出すと、それがよくわかります。あの時、正面から問題にぶつかった人の、その後を見ると悪くないのです。いっときは、かなりの面倒やストレスを背負い込んでしまうから、損をしているように思えても、後々それが活きています。一方で、要領よく立ち回った人は、意外とうまくいっていない。
 社会で起こっている問題から逃げると、同じような問題にぶつかった時に対処できないからです。「こういうときは、こうすればいい」という常識が身につかないのです。
 ことは社会的な問題に限りません。社会的な問題から逃げ切っても、それと似たような構造の問題を家庭内に抱えてしまうこともあります。
 そのときに逃げる癖のついた人は、上手に対処ができない。だから結局は、逃げ切れないのです。
「逃げ切り」が可能になるのは、新たな問題が目の前に現れる前に死んでしまったときくらいでしょう。
 また、身体的な問題、遺伝的な問題などは別として、人間関係や仕事に関わることなどの世間の問題と言うのは、どこかで自分のこれまでやってきたことのツケである場合が多い。そう考えていいのではないか、と思います。
「自分は何も悪くないのに、厄介ごとが次々に襲ってくる」と本人は思っていても、周りから見れば、その人自身が厄介事を招いている、と言うこともあります。どこかで他人や社会との距離の取り方、かかわり方を間違えているのかもしれない。しかし、逃げてきた人には、そのことは見えない。
 自分がどの程度のものまで飲み込むことができるのか。さまざまな人とつきあうことは、それをするために役立ちます。
 こういうことを学ぶうえでは、時に学校教育は邪魔になります。標準を決めて試験で優劣を決めることができても、世の中を生きていくうえでは、それ以外のことのほうが大切な場合が、ほとんどだからです。
 他人とかかわり、ときには面倒を背負い込む。そういう状況を客観的に見て、楽しめるような心境になれれば相当なものでしょう。
 自分がどこまでできるこ、できないか。それについて迷いが生じるのは当然です。特に、若い人ならば迷うことばかりでしょう。しかし、社会で生きるというのは、そのように迷う、ということなのです。
 どの程度の負担ならば「胃袋」が無事なのか、飲み込む前に明確にからるわけではありません。その意味では、運に左右されることもあるし、賭けになってしまう部分もあるでしょう。
 なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということを繰り返すことになります。
 しかし、そうやって自分が育ててきた感覚のことを、「自信」というのです。

養老孟司『「自分」の壁』「第10章 自信は「自分」で育てるもの」218-221頁、新潮新書

 

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新年、明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願い申し上げます。

 

冬休みもあっという間に終わり、新学期がスタートしました。

最後の学期です。3年生としての総仕上げ。気を引き締めていきます。

始業式は、全校児童、欠席者ゼロでした!嬉しい!

3年生の子どもたちも、大きく成長したように感じました。

 

冬休みが明けてすぐ、3連休ですが、毎日のように職場へ行き、雑務を片づけています…。

仕事が遅い自分が情けなくなってくるんですが、これも自分で選んだ道です。「仕事」として片付ける部分も多々ありますが、その「仕事」を「生き方」にしたのも自分です。

そして、その「仕事」は、「子どもの幸福」につながる。そう確信してやっていかないと、ただ忙しさに流されてしまいます。

教育の目的を忘るることなかれ。

 

「他者とかかわり、面倒を背負い込む」

教師でなくとも、一人の人間として目指していきたい生き方ですね。

 

今年も、大いに迷い、大いに挑戦し、大いに失敗して、大前進・大勝利していきたいと思います。

 

 

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「自分」の壁 (新潮新書)

「自分」の壁 (新潮新書)

 

 

 

2015年最終日


Google - Year In Search 2015

 

あと少しで2015年も終わりです。

あっという間でしたね。

今年は、担任を持つことになり、がむしゃらに走り続けた1年でした。残りの3学期も走り切ります。

その中で、夏の教員採用試験に5度目の挑戦にして、ついに合格を勝ち取ることができました。今年度の戦いは、今後の教員人生において大きなターニングポイントとなったと思います。

嬉しいことばかりではなく、辛いこともたくさんありました。苦しいこともありました。しかし、“大悪おこれば大善きたる”を信じ、明年2016年は大前進・大勝利の年にしていきたい。

今年は、仕事でもプライベートでも土台作りの1年だった感じです。

その土台の上に、また成長した自分が立てるようにがんばっていきます。

 

では、よいお年を!

生命の畏敬のないところに教育は存在しない

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 生命受難は政治の上から降りかかろうと、経済の上から降りかかろうと、その根は同じものではないかと思われて仕方ありません。かつて林竹二先生は教育の成り立ちにふれて、生命の畏敬のないところに教育は存在しないと言われました。
 このことは教育に携わる人間に向けて発せられた言葉のようにきこえますが、実はすべての人間の思考と行動に向けて発せられた深遠な警告であり、人間が人間にありうるところの普遍的な哲学です。
 政治権力を握る人、企業の上に君臨する人の生命哲学は、それをもって身を切るほどの峻烈な自己吟味が要求されるはずでありましょうに。
 中国のようなことが起こらなくてよかったと多くの日本人はいいますが、自然破壊と公害によるわが国の生命抹殺は、まことにひどい修羅場を作っていることに人々は思いをいたすべきでしょう。
 戦車で人間を踏みつぶす行為は誰もが避難しますが、緩慢な虐殺に人々は目をつぶりがちです。
 たとえば教育公害という言葉でもっていえば、そのために心身を傷つけられ、生命さえ奪われる幼い、あるいは若い人々のなんと多いことでしょうか。
 苦悶の日々は、わたしたちの上にもあるのです。
 
水上勉灰谷健次郎『いのちの小さな声を聴け』「未来はいつも(灰谷健次郎)」165-166頁、新潮文庫
 
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いのちの小さな声を聴け (新潮文庫)

いのちの小さな声を聴け (新潮文庫)

 

 

 

 

 

人間の寸法

 

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橋を見て、思いのほかきれいなもんやなぁと、クルーのひとりが言いました。

そんな人工美がないとはいえないけれど、私はそんなことより、地球から生えてきたものと、どんなに計算され強度を持ったものであっても人が作って地球の上に置いたものとの差を考えていました。

 

 橋はこんにちの建築学から見て傑作かも知れない。人は知識にたよって、この建造物に身をまかせているけれど、緑の山を見て眠る赤ん坊なら、足に目を見張っても、心安らかに目をつむる事はあるまいと、わたしには思えたのです。

じっさい、わたしには橋の上の車が、今にもぽろぽろ落ちてくるように思えた。
水上さんが人間の月着陸を、実際に月を見ていたものには見えなかったと、おかしくも語っておられたが、何かそれに似たおかしさと頼りなさを、私はその橋を見て感じました。
そして、30数年前の進水式の情景がありありとわたしに甦ってくる。
ついに最後まで読まれることのなかった『シートン動物記』の持ち主の死を、私は思い起こす。
瀬戸大橋の犠牲者十七名です。
連休に瀬戸大橋を見ようと押しかけた人は善良な市民と呼ばれる人たちでしょう。善良かどうかは知らないが、わたしもそのうちのひとりです。
「……生まれてくる人はみな、たった三尺の足はばの人生を生きるしかないのです。しかしながらたいがいの人間は、足はば三尺の歩行に満足できず、海に橋を架け、本土から四国へ車や飛行機を使ってゆきたがり、いや、もっととてつもないものを使って月にまで出かけたいようです。その裏で、人が苦しんだり悲しんだりしているのないがしろにしようとも」
水上さんのこの言葉は何百遍唱えても、唱え過ぎということには至るまいと、私は思います。
橋の入り口にあたる下津井節で有名な下津井のまちは、昔の面影が随所に残るいいところです。
さっそくに、という表現は穏当ではありませんが、橋ができ、あまりの騒音に耐えかね、下津井の人が座り込みをはじめたというニュースがテレビに流れました。辛いことです。
三尺の歩行を飛び越えたならば、いくら善良な市民であっても、瀬戸大橋の犠牲者十七名のいのちは目に映らないでありましょう。三尺足らずの寸法のうちに生きる多くのいのちのたった一つも目に映らないでありましょう。
人はそうして、こまやかさと優しさを失っていくのでしょうか。
 
水上勉灰谷健次郎『いのちの小さな声を聴け』「海と船と少女(灰谷健次郎)」52-54頁、新潮文庫
 
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いのちの小さな声を聴け (新潮文庫)

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怖くて外へ出られないという人がおられたら、外へ出られないというつらさを「共感」しながら聴いていく

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 ノイローゼといっても非常にいろんなものがありますけれども、日本の人がよくなるノイローゼに、たとえば対人恐怖症というのがあります。こういう所へ出てこられても、なにか人に会うといやだから、なるべく隅の暗い所へ座るとか、あるいはそもそもこういう所へ出てこられない。しかも大事なことは、そういう人は頭の中では人間はなにも怖くないということはご存知なんですね。それはわかっているのだけれども、ともかく怖い、どうにもならない。だから非常に気の毒なのです。そういうノイローゼをなんとか治してください、といってわれわれのところに来られる。それをなんとか治さなければなりません。

 その時にわれわれとして非常に大事なことは、その人がどんなふうに苦しんでおられるのか、どんなふうにその問題を克服しようとしておられるのかということを一緒に考え、一緒に悩んでいくということです。その人を、先ほどいいましたような、客観的に突き放して観察する、研究するというのではなくて、怖くて外へ出られないという人がおられたら、外へ出られないというつらさを「共感」しながら聴いていく、私どもも共にという姿勢です。

 そんなふうにして、そういう人と話し合っているうちにわかってきたことは、これは外に出られない人を出るようにしてあげるとか、あるいはこのごろよくあるように、不登校の人学校へ行けるようにしてあげるとかいうふうな単純な問題ではなくて、そこにはいかに生きるかということが入ってくる。つまり学校行けない人は、ほんとうは行けないということについて、行けないだけのその人にとっての意味があるわけで、それはどういうことなのだろうかということを考えているうちに、その人の考え方、人生観、世界観、そういうふうなことがだんだん問題になってくるわけです。

 このようにわれわれの心理学は、はじめはノイローゼの人を治療するという非常に現実的なことからでてきながら、結局は生きるということはどういうことなのか、あるいは生き方としてどういうことがあるのだろうか、という人間の根本問題にだんだん近寄らざるをえなくなる。何らかの意味で人間の人生全般について考えねばならなくなってくる。

 

河合隼雄『こころの最終講義』「第五章 アイデンティティの深化」259-260頁、新潮文庫

 

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あっという間に11月です。

だんだんと寒くなってきました。

相変わらず、たくさんの行事と日々の実践で慌ただしい毎日です。

事故にはくれぐれもご注意を。健康第一。

 

最近は、河合隼雄先生の本を読んでいるわけですが、たまに、学校の先生という仕事は、一体なんなのかと考えるときがあります。

国語や算数の知識を教えるだけではないことはたしかです。

心の闇を抱える子は、一人や二人ではありません。20人いれば、20人それぞれが、教科書以外のものも背負って登校します。

それぞれの“物語”をもって生活を重ね、友だちや先生、家族、地域の人たちにかかわっていく。

その“物語”をどれだけ聴くことができるだろう。

 

 

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こころの最終講義 (新潮文庫)

こころの最終講義 (新潮文庫)

 

 

ご報告

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9月29日、教員採用試験の2次選考試験の結果が発表されました。

この日は、火曜日。当然、いつものように授業です。

合格者の番号は、午前9時にHPに公表されるのですが、当然、いつものように授業です。

午後、空き時間があったので、パソコンで見ることができたのですが、まだ子どもたちもいるし、帰りの会もある。放課後も、校外活動があったので、今日の仕事を一先ず終えてから見ることにしました。

 

ドキドキしながら、ネットに繋ぎ、HPの合格者番号の画面を見ると・・・。

 

 

ありました!

自分の番号が!

 

念のために番号を確認するために、家に電話。

受験番号を確認し、番号があったことを伝えると、母は大喜び。

その後、校長先生や前の職場でお世話になった先生方、応援し続けてくれていた友人、先輩たちにご報告をさせていただきました。

 

やっとです。

「今年こそ!」

「今年こそ!」

と挑戦し続けて5回目。

一度諦めた夢を志して、7年半。

やっと、良い報告ができました。

 

10年前じゃ考えられなかったことです。

同級生にも合格の報告をすると、

「まさか、お前が教師になるとは考えられなかった」と、本心を打明けてくれましたw

 

ずっと応援をしてくれた地域の皆さん、先輩方、友人、先生方、そして恩師のおかげです。

 

来年度から、新任として頑張ります。

というか、今の職場でこそ、頑張らねばなりません。勝負の2学期です。ここでしっかりと、力をつけていきます。