「戦争状態にあるおかげで明晰である」より「平和状態が続いて頭が働かない」ことの方が百万倍もハッピーなこと

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「平和ボケ」という言葉がよくネガティヴな意味で使われるが、私は「平和ボケをしていられる社会」というのは理想的な社会だと思っている。「戦争状態にあるおかげで明晰である」より「平和状態が続いて頭が働かない」ことの方が百万倍もハッピーなことである。

 そのうえで、「平和ボケ」という言葉には教化的な意味があると思うのである。

 なぜなら、「ボケ」ている人間には平和を効果的に維持する能力がないからだ。

 私たちはつねにこの「例外的に恵まれた政治的状況」が「失われる可能性」を勘定に入れて政治的判断を下すべきだと思っている。

 そのためには、私たちの国が再び戦争状態に巻き込まれたとき、あるいは抑圧的な政治体制に戻った場合、そのおようなネガティヴな状況の下で、なお生き延びるためには、どういうふうにふるまえばよいのか、ということを「平時」にあって考えることが必要だと思うのである。「平和ボケ」に批判的に言及することに意味があるとすれば、そのような創造を喚起するきっかけになるからであり、それ以外には意味がない。

 分かりにくいかもしれないけど、「苛政の下でも生き延びるためにはどうふるまえばいいのか」を考えるのは、「苛政の状況下で生き延びるため」ではない(そんなことは友人を売り、隣人を食い物にしても生き延びることのできる利己的な人間にとっては少しもむずかしいことではない)。そうではなくて、私たちが「残酷で強制的な社会の下でも生き延びるためにはどうすればいいのか」を考えるのは、そのような政治体制を決して実現させないためなのである

 想像力というのは、現実に存在しないものを想像的に現前させるためだけに使うものではない。現実に存在してはならないものを決して現実化させないためにも用いるものなのである。

 

内田樹 『子どもは判ってくれない』「「自分らしく」あるのは当然か」94-95頁、文春文庫、2006年)

 

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とある市長が、日本の街を米軍基地にさせたいそうですが、それで沖縄の負担軽減につながるとは思えませんし、ますます、日本が「平和」から遠ざかっているように思います。

「「ボケ」ている人間には平和を効果的に維持する能力がないから」だと。なるほど・・・。

戦争は、ゲームではない。否、ゲームのように人間が消えていくので・・・。orz

 

安部政権の支持率が高いですね。これまでなら、支持率というのは、最初だけ高くて、数ヶ月すれば下がるものでしたが、今回は、維持しているようです。国のトップのお偉いさんたちが変な方向にいかないように、陰でしっかりとブレーキ役をしている政治家の皆さんには、今後も働き続けてもらいたいものです。

 

その中で、憲法第9条、第96条云々と騒いでいます。

とにかく、戦争は断固として反対するものですが、知らず知らずのうちに、日本の街が米軍基地になり、「お国のため」「幸福のため」「安全のため」という名のもと、戦争に巻き込まれていく状況にならないように、時の政権のブレーキ役には、民衆の心を忘れないでほしいですし、戦争の悲惨さを心に刻んでほしいと思います。また、ボクらも、しっかりと監視し、政治的判断を下していきたいと思うのです。

 

 

 

子どもは判ってくれない (文春文庫)

子どもは判ってくれない (文春文庫)